えこひいき日記

2001年11月9日のえこひいき日記

2001.11.09

私たちは、小学生のころから「多数決」と「民主主義」を結びつけて教育されてきた気がする。しかしそれを「正義」だと思い込むのは間違いだ。それが「公平」なわけではない。もちろん「多数決」という決議の仕方にはそれなりの意義があるし、よいところがある。しかしだからといって「少数」であることを「とるにたらないこと」と捉えるのは間違いだ。小さいけれど、かえがたく、かけがえなく、大切なものというのは存在する。それぞれの「違い」を認めらうる状況こそが「公平」な状況だという気がするのだが、「大多数」に入ったものが「正しく」て「公平」だという「間違い(勘違い)」が、往々としてはびこるようになったのは、どうしてなのだろう。そういうのって、ただの「権威主義」だ。「権威」によって自分の安全だけを保障しようとしているだけだ。

などといきなり憤っておるのは、アメリカではイスラム教徒が、パキスタンなどのイスラム諸国ではキリスト教徒が、謂れのない迫害を受けているというニュースを見ちゃったからだ。

私は、「多数決」というのは「アンケート」に過ぎないと思っている。企業がよくやる「市場調査」みたいなものだ。多くの人が指示する意見に対する対応をすれば、多くの賛同や利益が得られるだろう、という「リサーチ」に過ぎないと思っている。「多くの同一意見」(多数派)と「その他の意見」の間に著しい差がない場合、大多数の意見に沿ったアクション(つまり、大多数であったことを一つの「回答」とみなす)を開始してもそれほど問題は起きないし、アレンジも可能だろう。問題は、多数派と少数派の意見がまったく正反対のものであったり、意見そのものではない感情的な対立があった場合だ。そういう時、「多数決」は「採決」の方法として最適とはいえない。対話が必要になってくる。

「やられたらやりかえす、では解決にならないよ」と学校で教え、刑法で定めてきているのに、どうしてこの同時多発テロでは「やりかえす」の?と子供に(「子供」とは限らないけれど)聞かれたときに、私はどう答えたらいいのか、わからない。私は、個人的には、やられたような方法でそっくり「やりかえす」という方法をとらないと思う、ということ。それは言える。でも、「こども」に大して「おとな」のほうが「政府」とかに近い立場にあるとすれば、「おとな」に近い「政府」がどうして「おとな」に理解できない行動をとれてしまうのか、そのことを説明できない。それに困るのだ。「わたし」と「政治」って、「政府」って、どう関係しているの?「わたし」と「世界」はどう関係しているの?そのことを自分で自分に説明してあげられないことに、とりあえず私はじれている。

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