えこひいき日記

2001年12月25日のえこひいき日記

2001.12.25

本日はクリスマス。キリスト教の聖日である。私はアメリカに4年住んだときの体験が強烈にあるせいか、「クリスマス」に「みんなでぱっとパーティー!!」とか「恋人と過ごすための理由」にするというのは、どうも「ふとどき」と申しましょうか、「ズレてる」感じがしてしまって、あんまり好きではない。クリスマスはやはり宗教行事だ・・と強く思ったのは、アメリカに暮らしていたときで、日本でもいわゆるミッション系の学校に入っていたにもかかわらず、日本ではそうは思っていなかった。ちょうど日本の人がお正月やお盆に実家や田舎に帰るように、「おうちにかえる」あたたかな雰囲気が欧米のクリスマスはある。日本人とて、お盆と正月におうちに居て特に何をするというわけでもないかもしれないが、その「何をするわけでもない」ことを「ちゃんとやる(できる)」ことが実は大切なのではないかと思う。「おうち」は文字通りの「マイ・ホーム」でもあろうが、それは空間的に固定された特定の場所というよりも、自分の「居場所」とか「存在」の問題であり、宗教的には「神」なのだろう。私はキリスト教徒ではないし、他の特定の宗教に深く帰依しているわけでもないが、宗教や信仰に対する敬意を払う気持ちはある。その気持ちに則り、キリスト教徒ではないけれど、私の大好きな人たちのしあわせを心の中で祈ったりさせてもらう。

「おうち」の感覚とはなんだろう。例えば、私は事務所は「所有物件」ではなく「賃貸物件」である。でも賃貸だからといって、この空間が「わたしの居場所」と感じられないわけではないし、この場所に感じる愛着(?)というか「居心地のよしあし」が所有物件に劣るというものでもない。

実は先日、旧・準備室だった部屋の斜め向かいが放火されるという事件があった。早朝6時過ぎに警報ベルがなり、準備室に泊まっていた私は飛び起きたのだが(もともと物音に弱いのだ)、ドアの外を見てみると、斜め向かいの空き部屋のドアの前に新聞紙が詰まれ(そんなものは昨晩までなかった)、それが燃えていたのである。幸い炎は小さく、水差しの水を何杯かかけて消火できたのだが、心穏やかではない出来事でもあり、それから数日は何となく安心して眠りにくかった。私は第一発見者で通報者でもあったので、警察の簡単な事情聴取などがあったのだが、そのあとに管理人さんが「ご迷惑をかけてすみませんでした」「消火してくださり、ありがとうございました」と言ってきた。私は管理人さんの心遣いをありがたく思いながらも、ちょっとひっかかった。だって、消火をしたのは誰のためでもない、「じぶんのため」なんだもの。これは自分の命と財産にかかわることで、ビルの所有者のためにやったことではない。賃貸とはいえ、ここは「私の場所」なのである。それは「物件」としてのこの場所の財産的所有権問題とはまたちょっと違った話で、「権利」とか「所有」の問題ではなく、自分が居る場所は安全で心地よい方がいい、という単純な感覚によるものである。また、ちょっと別の話題になるが、例えば、このようなマンションには毎日のようにポストにさまざまなチラシの投げ入れがある。最近はポスト横に不要なチラシを捨てるためのゴミ箱を設置してくれたので助かっているが、それでも、エレベーターの中にチラシが落ちていたり、エレベーターの壁面防護用のカーペット生地と壁の間の隙間にそれらのチラシを入れて(捨てて)いく人がいるのだ。これを捨てる人たちは多分、このマンションの入居者なんだろうけれど、ここは彼らの「場所」じゃないかんじなのかなあ、と思ったりする。マナーとか何とか言うより、これは「テリトリー感覚」の問題だなあ、と思うのだ。「自分の居場所」とその「居心地」の体験の問題。とはいえ、私も2年位前ならゴミと化したチラシの散乱をただ不快に思うだけで、ビル清掃の人たちが片付けてくれるかな、という人任せな態度だった。でも今は、拾って捨てることができるようになった。「しよう」と思っているわけではなく「できるようになった」のだ。「権利」がらみでものを考えると、自分が捨てたわけでもないゴミを拾うのは「損」のような気がするものだが、「損」だからと放置して「不快感」を「怒り」(でも誰に対する?)に変えるくらいなら、さっさと拾ってさっぱりするほうがいい、と思えるようになったのだ。それに自分の事務所『スタジオK』を訪れてくださる方にゴミで不快な思いをさせるのは、やっぱり嫌だもんね。

ところで「帰宅拒否」という症状がある。自分の家や部屋なのに落ち着けなくなったり、そこに帰るのに勇気を要したり、一旦入ると今度は出ることに葛藤をともなうような状況をいう。私も子供のころ、自宅に居ると眠りが浅く、旅先でのみ爆睡できて「日常」の緊張疲労を補う、という時期があった。クライアントの中にも「家」という「安らげるはず」の場所に「帰れない」自分との葛藤を繰り返す人はたくさんいる。舞台は「家」であるが、それは物理的な意味での「家」とか「場所」の問題ではない。自分の「居場所」、「テリトリー」の問題なのだ。「いいこ」や「よい夫」「よい妻」でないと、「そこにいる権利」が与えられない場合、「家」は「おうち」ではなくなる。それが具体的な対人問題にある場合、一人暮らしなどをはじめる(はじめられる状態になる)ことが解決につながるが、一人暮らしになっても「おうちに帰れなくなる」人もいる。自分の「居場所」が自分の中に見出せない人は「おうちに帰れない」のだ。だからレッスンでは、「自分」が自分の「からだ」に居る為の「入居条件」を聞いていったりする。「じぶん」が自分に居住することは、実はたいへんだったりするのだ。知らないうちにものすごく支配的で、うるさい「物件オーナー」になっている人も少なくない。だから「テナント」と「オーナー」(どっちも自分の中の「じぶん」なのだが)で話し合ってもらうのだ。その際に結構「うで」とか「あし」とか「関節」などの「間取り」の問題で両者の「物差し」がずれていたりして、また揉めたりするので、その調停をするもの大事になってくる。

私にとって、アレクサンダー・テクニックの使い方って、こんな感じである。フィジカルだけど、とってもメンタル。

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