えこひいき日記

2002年2月11日のえこひいき日記

2002.02.11

建国記念日。祝日だが、ふつーに仕事をしております。それにしても寒い。

ゆえあって象形文字や古代文字の本を買い込んだのだが、本屋さんでさまざまな書に関する本をながめているうちに思い出したのが、小学生のときしばらく通ったお習字教室のことだった。そこはとても変わったお習字教室で、小学生などという「こども」は私しかいなかった。来ているのは「おとな」ばかりだった。しかも入門初日にいきなり「あなたは書家になりたいのか、それともただ習いに来たのか」と先生に聞かれて、かなりびびったのを覚えている。当時私の人生に「書家」というプランは全くなかったので「習いに来ただけです!」とびびりながら返答した。そしていきなりなにやら書かされ、厳しく批評され、どういう判定基準だったのかわからないが、入門を許された。しかし強烈にびびったのはこの初日だけで、あとはとてもかわいがってもらえた記憶がある。畳の和室にずらっとお習字用の机が並べられ、「おとな」たちが静かにしかし一心に書を書いている雰囲気は私は好きだった。小・中・高の記憶がほとんどない私だが、ここのことは今でも思い出せる。

お習字教室のことを思い出したのは、書に関する本をたくさん見たからでもあるが、もう一つ、意外なカップリングに気がついてしまったからだ。私は、お習字のことを思い出すとアタマの中にクイーンの音楽がなり始めるのだ。ちょっとくらいならボリュームも小なのだが、本屋で大量の書に関する本に囲まれていると、それはアタマの中ではっきり聞こえるくらいの声でフレディー・マーキュリーが歌う。
クイーンとお習字の出会いは、あのお習字教室にある。そのお習字教室ではなぜかいつもFMラジオがかかっていたからだ。私はその頃、毎週最新の洋楽チャートを聞きながらお習字に励んでいたのだ。しかも私にとってそれは始めて聞く(クラシック以外の)「外国の音楽」だったと思う。ジョン・レノンやフレディー・マーキュリーの歌い方は、クラシックと日本のポップスしか聞いたことのない私にはすごく「へんな歌い方」に聞こえ、なんというか、とても「情景的」な感じがして、すごく不思議な感じがした。でもだんだん面白くなってきてしまい「ばーいしこー」とか「うまんー」とか歌いながらお習字していた。考えてみればつくづく変なお習字教室だった。ゆえに私の中では「書」=「洋楽(しかもクイーン)」という図式になっているらしい。刷り込みとはオソロシイものだ。自動再生なのだ。他にもあと、戸川純の歌う「玉姫様」と源氏物語も私の中では「セット」になっている。これは戸川純を聞きながら古典の試験勉強をしたときの記憶だ。

考えてみればこのような記憶もトラウマも、原理的には同じものなのだ。ただ「恐怖」でこころやからだにタテゥーされているのと、思い出せることを受け入れられるかたちでタテゥーされるのとの違いかもしれない。

レッスンをしていて、よくクライアントに「覚えていることよりも、思い出せることが重要です」と言うことがある。ここに来る方はたいてい、「そうしていることすら気づかないまま行っている」習慣性と呼ばれる行動パターンに由来する痛みや怪我などの悩みがある。関節の位置を思い違えていたりとか、方だと思っているところが機能的には全く肩ではない場所だったりとか、「認識」と「行動」のずれによる悩みがほとんどである。しかし「なぜずれたまま習慣化することが可能だったのか(痛いのに)」を考えてみると、きちんと理由があったりする。そういうこともあって「この間もレッスンで言われた」ような内容がくりかえしレッスンでテーマになることは珍しくない。それを「後戻り」「忘れる」ととらえてちょっとネガティヴな気分になってしまったクライアントに対して「そんなことはない。忘れてしまったなら、忘れていたことすら思い出せないはず。情報としてキープすることよりも何が違うのかを理解して、思い出せることの方が、立派に身についた記憶なんです」と説明することがある。

私のからだはさまざまな記憶の集積でもある。したことがないことはできないし、したことしかできない。「してみたことのないことをする」という言い方があるが、厳密には不正確だ。これまでしてきたことの流れがあるから、それをしようと思い、出来るのだ。学習が快感情と結びつかなくてはうまくいかないのは、実に自然なことだ、それは記憶というものが「覚えておく」ものではなくて「思い出せる」ものだと考えるととてもわかりやすい気がする。いわゆるスパルタ式のファシズム入りの教育では「暗記しておく」ことはできるが「思い出す」ことは難しい(苦痛感にも再生がかかるからね)ので、発展性が薄い。その意味で「好きこそものの上手なれ」は学習の理にかなっている。

あ、付け加えておくが、所を見てアタマの中に流れる音楽は「記憶の再生」であって、ライブ演奏でないことは自分でわかっているし、聞きながら現実のひとさまと会話するのに支障はない。私はそこまで電波系ではない。

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