えこひいき日記

2002年2月21日のえこひいき日記

2002.02.21

うちの猫が風邪をひいてしまった。くしゃみをし、鼻水に時折血が混じるようになった。鼻道に炎症をきたしているに違いない。(私は『イラストで見る猫の病気』という本を持っている。この本はとてもわかりやすく、こうした症状の際、見当をつけやすい)食欲もあり、排便の様子も変わりないが、念のため、獣医さんに連れて行った。
例によって、猫にとっては、なぜ体調が悪いときに限ってお出かけせねばならないのか不可解なのではないかと察する。見知らぬ医師(幸いうちのこは年に一度の予防接種のとき以外お目にかかっていないので、忘却するらしいのだ)にぐりぐりからだを触られたり、体温計をお尻に突っ込まれたりするので、「なにをする!」という感じで、怒っておられた。幸い症状は軽かったので、抗生物質(1回2錠、1日2回投与)5日分と同じく抗生物質の目薬(1日4回、鼻にも注す)をもらい、帰宅した。医師のところでバスケットから出てもらうのは、壷に入ったタコやうなぎを出すがごとく苦労したが、帰宅してバスケットから出るのは自主的で軽やかですばやかった。

こうして猫への投薬の日々が開始されたのだが、これは人間の方が緊張してしまう。少なくとも、私は毎回どきどきだ。薬はご飯と違って、猫に歓迎されない。しかも薬は人間に無理やり拉致され、「あーん」させられて飲まされるのである。私が猫だったら間違いなく、嫌だ。
私は人間としてまじめに猫と生きようと思っているので、いちおう、この暴挙ととれる行動の意味を「説明」する。といっても、確実に猫にわかるコミュニケート方法を知っているわけではないので、とりあえず、言葉にして、言う。「言葉を」わかってもらおうとは思わないけれど、人間が言葉を発する際に、いわば「サイドメニュー」的に繰り出している何か・・声のトーンとか、身振り手振りとか、こちらのからだの緊張のし具合とか・・から何かわかってもらえる要素があるかもしれない・・という淡い期待、というより、祈りのようなものをもって「あのね、あのね、メフィー(猫の名前)、おかあさん(私)はね、」と、とりあえず、話すのである。
猫が、自分にとって快ではない人間の行動をどのような幅をもって受け止めているのか、私にはわからないが、とりあえず、メフィーは医師の行動が「嫌がらせ」や「暴力」でない種類の「いやなこと」だということはわかっている・・というより、正確には「わかっていないとはいいきれない反応を示す」・・みたいだし、私の行動も「いやなこと」だけれども「攻撃」とはとっていないみたいだし、「いやなこと」をされたから「嫌う」などというリアクションに出ることもなく、その後何事もなかったかのように一緒に遊ぶし、今も足元で寝ている。しかしだからといって「投薬」を受け入れるわけでも慣れるわけでもなく、その都度(激しくではないが、しかし)はっきり抵抗される。

「理解」とか「わかる」って、なんなのだろう。(私の中では定番メニューと化したテーマだが)
そのことについて考えれば考えるほど、あることがわかってくればわかってくるほど、それは「わかっていないんだ」ということがわかってくる(鮮明に、あるいは量的に)気がするんで、「わからなくてもこのくらいなんとかなるんだぁ」という楽天的な感覚と「わかる、という幻想」の存在にある種の底なしの断絶感というか、ある種の絶望感が、ブレンドされたものを感じることが常なのだが、いつも少しだけ楽天的な感じ、絶望しきれない希望のようなものがあるから、私はまだ生きていて、こんな仕事もしているんだろうなあ、と思ったりする。

でも先日(久々に)、絶望感に襲われてしまった。おそろしくむなしくなってしまった。仕事に関してだが。こういうむなしさは、この仕事をしている限り続くだろうし、これが最初ではないし、これが最後でもないだろう。誰かと長い時間をかけて向き合っても、結局、何も学習されていなくて、繰り返すパニックや不安の前には何にもならないのかなぁ・・・とか、こちらが何を言っても聴いてくれなくて、ただ目の前にある派手な変化や差異にばかり気をとられてそれを「すごい」とか「よくなった」とかいわれても、それだけじゃまるで大道芸だよなあ・・・とか考えていると、むなしーくなってしまったのだ。もちろん、そういうクライアントばかりではないけどさ。そう考えると、本質的にはよくわからない「わかる」というものに、私もまた支えられていることがよくわかる。「全然わかっていない、とはいいきれない」という希望があるから、私は砂嵐の中で叫ぶような行為であっても、それが「きらい」とか「いや」だけじゃなくて、毎日人を教えることができるんだろう。

私はけして動物の持つある種のイノセンスを奉ってありがたがったりあこがれたりするつもりはないが、人間の持つ言語などの概念の呪縛性に疲れることはある。自分の思いから外れるもの、概念化されていないものはたとえ今目の前で起こり、自らが今体験していることであっても、それを否定し」「却下」してしまう感受性の幅や習慣の貧しさに、某キャッチコピーではないが「にんげんやめ」たくなりそうになる。でも「にんげんやめる」くらいで世界が変わるほど甘いものではないことは承知しているので、私はやはりこの「理解なき交流」の中で何が出来るのかを考えなくてはならない。私に出来る努力はそのくらいのことだもんね。・・・と猫への投薬と戦いつつ、思ったのであった。

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