えこひいき日記
2002年3月11日のえこひいき日記
2002.03.11
アメリカでの同時多発テロからちょうど半年となる。半年経って、どうなったか。まだ空爆は続き、新たにパレスチナとイスラエルの間でも報復合戦が起こっている。他人事のように、この事態をあきれて批判するのは簡単だと思う。事実、私の中の一部はあきれはてている。どうしてアメリカは報復攻撃に踏み切ったのだろう、どうして日本はそれに対して無批判な態度しか取れなかったのだろう、と。でも私は自分の中の「あきれ」がこの問題への「無関心」へと変わることをもっと恐れている。私には何が出来るのだろうか。
あの日、私はどうしようもなく悲しくて、毎日泣いてばかりいて、どうしたらよいのかわからず、わからない気持ちのまま、鎮魂の意味をこめて白いゆりの球根を植えた。育ってくれるか心配していたが、そのゆりの茎はにょきにょきと伸び、いまやベランダの柵より高くなってなかなか凛々しい姿をしている。あまりにも背が伸びたので、時々植木鉢の向きを変えないと、どんどん傾いて伸びてしまうのだが、どんなに方向を変えても太陽を追って伸びる姿はなんだか逞しい。夏にはきれいな花のかんばせを見せてくれるだろう。
私はどうしてゆりの球根を選んだのかなあ・・と思っていたのだが、いろんな理由の中の一つに、ひょっとしたら夏目漱石の『夢十夜』の印象があるのかもしれない。うろ覚えなのだが、『夢十夜』の中の一編に、亡くなった女性が100年後に花になって男に会いに来る、という話があったと思う。花になって現れた女を見て男は「ああ、100年経ったんだな」と思う、というくだりがあったのだが、その「ああ、100年経ったんだな」という受け止め方が印象的で好きだったのだ。夢のお話なので、男の振る舞いは起きているときとは違う感じなのだが、しかし「違う」から「ほんとうのきもちではない」というものでもない気がする。昼間の世界では、既成の概念が強すぎて、出来事に反応するのが精一杯で、本当にはそれを受け止める暇がないことがあるような気がする。これが夢の中のお話ではなく、昼間のおきている世界での話だったら、花になって会いに来る女はただの「幽霊」(「ただの幽霊」っていう言い方もなんだが)あつかいされてしまい安易に怪奇話になっていたかもしれない。私が女だったら驚かそうと思って花になるわけではないから、驚かれるとちょっと悲しいかもしれない。ただ会いたい。会って欲しい。出会って欲しい。その気持ちをわかって欲しいと思いすぎると脅迫になるかもしれないが、その気持ちを素直に受け止めてもらえたなら、やはり無上に嬉しいような気がする。男の「ああ、100年・・」というのは「100年」という時間に対するコメントではなく、私には花になった女にたいする「nice to see you (again)」に聞こえる。