えこひいき日記

2002年4月14日のえこひいき日記

2002.04.14

昨日は祖父の命日だったのだが、お墓参りに行ったらお墓の前で数珠が切れてしまった。意味のあることなのか、ないことなのかわかんないけれど、これはなんなのだろうか。そんなに「不吉」という感じはしなかったのだが、お世話になっていた数珠だから、いずれ修理に出さねば。

普段なら祖父の命日は桜の頃なので、お墓の周りの桜がきれいなのだが、今年はさすがに葉桜だった。春の墓場というのはなかなか賑やかで美しい。スミレやタンポポや、カラスノエンドウの花が咲き、日差しに若い葉が黄緑色に透ける。お盆やお彼岸といった、生きた人間が一気にお墓に集結する時期とは違うので、そんな風景を楽しむ余裕もある。それにしても、お墓にもいろんな個性があるものだ。お墓の形とか、規模とか、そういう生きている人間がしつらえて設計する形もそうなのだが、例えば雑草の生え具合とか、卒塔婆の立てかけられ方などの、オリジナルにはプランニングされていない「かたちになったもの」を通して、その墓の中の人間と墓の外の人間との「距離」や「関係」が見えてくるようなのが面白い。墓石を圧倒する量のタンポポの花に彩られたお墓は、まるでボッティチェリの『春』の、変容する女性(妖精だったっけ?)のようでもある。でも夜に見るとまた表情が違うのかもしれない。

ちょっと思い立って久々に『日本人の「あの世」観』(梅原猛・著 中公文庫)を開いてみた。「あの世」というところを「ここではない、どこか」と定めるべきか、「ここの、どこか」と考えるべきか、考えたってしかたがないという気がするが、しかし漠然とどちら寄りで考えているかによって、少し「この世」を生きるリアリティが変わってくるような気がするのだ。なんか、それに関与する記述があったはず、と思って探してみたら、やはりあった。以下のような一文である。
「この日本人の「あの世」観について、最も鋭い考察をしたのは、やはり柳田国男であります。彼は、日本人の「あの世」観に、矛盾する二つの考え方があることを指摘しています。一つは仏教の「あの世」観であり、人間は死んで、西方十万億土の彼方にある極楽浄土へ行くという考え方です。もう一つは、土着宗教の、人間は死んで山に行き、天に帰るという考え方です。柳田は、日本人は表面は、前者を信じているようで、実際には後者を信じているのではないかと言い、この矛盾を、日本人は深く追求せずに、矛盾したまま併存させたと考えています。」
それは私の中の「祖父の居場所」ともあまり矛盾していないような気がする。

話はずこしずれるが、「輪廻」ということを、最初に感じた人間は何をもって「輪廻」というサイクルの存在を信じるに至ったのだろうかと思う。多分極めて環境的、現象的なことを通してだったのだろうと思う。毎年春になると同じ樹に花が咲く。去年の花と今年の花は個としては別のものなのに、そっくりな花が今年も咲く。実が実る。その実は去年食べてしまったそれとは違うものなのに、今年もまたそれとそっくりな実がなる。そういうことに「輪廻」を感じたのかもしれない。太陽が昇って、沈むこと。しかし毎日日照時間が違っていて、でも一年後にはほぼ同じサイクルになることを通して感じたのかもしれない。自分の子供が自分にそっくりなこと、自分が自分の親にそっくりなこと。でも、そっくりでも全く同じではない。輪を描きながらどこかに動いていっている。
それは個人のサイクルの中にも存在することのように思う。固定とは、似て非なる安定というサイクルの上に成り立つ「日常」。表面的には同じことの繰り返しだから、固定され、閉じ込められていると感じることもある。三島由紀夫は「人間はこの皮膚の外に出ることができなければ、結局、何も変われない」と言って、ボディビルで自らの肉体を「装飾彫刻」し、輪廻転生をテーマに下4部作を書き、割腹自殺を遂げた。彼にとって「からだ」とは「変えがたい運命」以外の何者でもなかったのかもしれない。
坂口安吾の『桜の森の満開の下』の中で、女が「お人形さん」がわりに所望する人の首を集めることにあきあきした盗賊が「こんなきりのないことはやめよう」というシーンがある。それにたいして女はこう言い放つ。「なんにだってきりがないのだ。あなただって、毎日毎日ご飯を食べては寝て、きりがないじゃないか」「それとは違う」と盗賊は言うのだが、「どうちがうんだえ」と聞き返されて何も言えず、苦しくなってその場を逃げ出す、というシーンだ。違うことを感じるのに、どう違うのか言葉にできない、男のもどかしさが私にもわかる気がする。そして、それこそきりのない、衰えぬ情熱を持って「首狩り」を繰り返す女の有様に恐怖すら感じる気持ちも。男が恐ろしいのは、「首狩り」ではなく、「きりのなさ」なのだ。「きりのない」ことをさらりとすずしく繰り返せるエネルギーをもつ女に、彼はすでになぎ倒されそうになっている。でも本当は、「変わりなく同じ」に見えるのは留まることなく「変わっていっている」からだということに、男は気がついていない。

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