えこひいき日記

2002年10月14日のえこひいき日記

2002.10.14

昨日、色彩に関する某テレビ番組を見ていて、急に思い出したことがあった。正確に言うなら、思い出して、それで思い当たったことがあったのである。
それは、私は小学生の頃、色を見ていなかったなあ、ということだった。色覚異常という意味ではない。色自体は見えているのだが、色にそれほど重要性を覚えていなかったのである。私はどうやら根っからフォルムとか構造にこだわる人間らしい。仮に「かたち」か「色」か、といわれたら、私は「かたち」の方を、より重きをおいて「みる」性格の人間であった。かたちや、その構造を際立たせるものとしての色は認識するのだが、色自体に固執することはなかった。よく、バラエティーや差異に富んでいる状態を「色々」と表現するが、私にとって色の存在感とは、色とりどりに差異を主張するために使うものではなく、統一感を出すために使うものだったらしい。だから、小学生自分のお絵かきのときに、確かに一つ一つの色はきれいな色なんだけれども、やたらさまざまな色を使いたがって「画面を汚す」(たいへん申し訳ないが、私にはそう見えたのだ)同級生のしぐさが理解できなかった。
理解できなかった自分のことが、昨日テレビを観ているうちに、ちょっと「こういうことだったのかな」と理解できた次第である。

小学6年くらいのとき、美術の時間に「模写」をやったことがあった。友人たちはルノアールやシャガールの具象的な絵画を選んでいたが、私はミロを選んだ。それはルノアールの絵画の模写なんてできっこない、という技術的な問題でもあったが、ミロは好きだったのである。「抽象画はわかりにくい」という友人は多く、先生からもやや変人扱いされたが、あんまり気にしなかった。選んだのは『かもめの飛翔』というタイトルの絵だった。少・中・高の記憶がほとんどない私だが、このことは良く覚えている。私にとって、あの絵はとても「美しい、かわいい絵」で、その後大学生になってからパリで手に入れたポスターを今もタンク部屋の壁に飾っている。
『かもめの飛翔』には、おおざっぱにいえば、色は3色しか登場しない。青と、黒と、赤である。模写をしたときの感覚で、今でも残っているとても印象的な感触は、「色で形を描く」感覚である。多くのこれまでのお絵かき体験が「輪郭をとった枠の中に色を載せていく」というものだったのに対し、白い紙の上で走るたっぷりと絵の具を含ませた筆の軌跡が、そのまま「色の形」(色で形?)になるのは、ちょっとぞくっとするような解放感だった。オリジナルの黒い色で描かれた部分の、筆のばさばさした感じも写し取ろうと、すごく気をつけて書いていった記憶がある。なんであんなにぞくぞくしたのか、そのときにはわからなかったが、今になってちょっとわかる気がする。

私に「みえている」色は、常に「動き移る」色である。例えば、夕暮れ時の空が見る見る色を変えていくような、そういう色だ。「空の形」をみることはできないが、夕暮れや夜明けの色を通して「空」を見ることは私にも出来る。そういうときに私は「色」を認識する。色に見とれる。そういう色を記録したいと、写真にとってみたりするが、なかなか撮れない。やはり私にとって「色」は「留まらないもの」だ。「動き」なのである。
洋服とか、ノートとか、形あるものにつけられた色を私は「色彩」というより「形」としてみてしまう。それがそこにあることの、「はまりぐあい」の一つとしてみてしまうので、どうも色自体を観ている気がしない。

以前にもこの「日記」のコーナーに書いた『共感覚者の驚くべき日常』の中にこのような一文がある。

「色の恒常性は異なる刺激が同じに見えるという錯覚である」

この言葉の意味が、私にはすごくよくわかる。どうやら色に関して、私はこの「錯覚」にはまりずらい性格みたいだ。

カテゴリー

月別アーカイブ