えこひいき日記

2002年11月4日のえこひいき日記

2002.11.04

もう11月。急速に「冬」である。空気がすんで、東山がきれいに見える。

ところで「ふつう」というコトバのアメーバのごとき貪欲さに呆然とすることがある。「ふつう」という言葉でくるんでしまえば、その中にどんなものが詰め込まれていようとも一見ほんとうに「ふつう」に思えてしまうこところが「ふつう」のこわいところだ。
私のところに来るクライアントさんたちはみんな「ふつう」の人たちだ。痛みや繰り返す症状がある人が多いが、外科に行っても原因の特定が難しく、その意味で「異常がありません」と言われたり、「特にどうもないです」「体質でしょう」「職業病です」あるいはまるで「嘘をついている」ような扱いをされた人もいる。だから彼らも自分のことを「ちょっと痛いし、変だけど、病気とは違うし、ふつう」と思っていることが多い。それを「間違い」だとは私も思わない。「ふつう」・・・つまり、それが彼らの「毎日」であることは確かなことなのだから。
しかし「ふつう」の内容は、かなり多様で、時にかなり異常だ。自分が「ふつう」にしてきたことの異常さに気がついて初めて、自分の「ふつう」は「異常」だったことへの認識が生まれる。つまり、自分が「ふつう」だと思って過ごしてきた状況の「終わりの入り口」を見つけるまでは「ふつう」は自分には見えない存在として存在し続ける。ちょうどトンネルの中にいるみたいに。向こうのほうにカマボコ型に切りとられた「そと」の風景を目にして始めて、自分がいたところが「トンネル」であるという認識が生まれるのに似ているかもしれない。でも今は自分はまだ「トンネルの中」で、外はもう少し遠くにあり、まだたどり着いてはいない。

本の原稿を書いたり、毎日のレッスンの中で改めて思うのは、私は「異常を発見し、異常を消滅させる」ような手法での「改善」よりも、「「異常」が、いかにして「ふつう」になるのか」に興味を持っているんだなあ、ということである。習慣化した問題に向かい合うには、ただ「異常」を相手に「闘う」姿勢をとるだけでは不十分なのである。気がついてしまえば「なんでこんなしんどいことをしているんだろ」というようなことであっても、それが日常化している間はその「異常さ」に気がつけない。だから、どんなに「異常」な「ふつう」であっても、闘志をみなぎらしたりせずに、まずちゃんと「みる」ことから始めなくてはいけない。「異常」を目の敵にすることは簡単だ。多くのクライアントさんが、つらい症状からの脱却を目指して、闘うことに忙しくなりがちである。しかし「異常な「ふつう」の状態の誕生」の構造を理解しなければ、なぜそんなしんどいことが「ふつう」に恒常化できるのかが見えてこない。習慣化した症状の改善を望むのであれば、大事なのは闘うことよりも、恒常化に至るプロセスに対する理解である。

しかし同時に私は「ふつう」化できてしまう「異常」の存在に、ある種の愛嬌というか、変な言い方だけれども、人間の生への不器用な情熱のようなものを感じて、「かわいいなあ」と思ってしまうことがある。真剣に困っていたり、痛かったり、パニックになっている人に対して失礼かもしれないが、でもいつか、そういうことも「笑える痛み」になっていったらいいなあ、と思ったりするのだ。
大丈夫。きっと大丈夫。あなたの中から生まれたものなら、あなたの中に答えがあると、私は思う。

カテゴリー

月別アーカイブ