えこひいき日記

2003年1月4日のえこひいき日記

2003.01.04

市内の本屋&ギャラリーで、「ミッフィーちゃん」の作者として知られるディック・ブルーナの『ブラック・ベア展』が開かれているので観にいってきた。「ブラック・ベア」というのはブルーナの装丁作品やポスターの中に登場する黒いクマのキャラクターである。ミッフィーよりも目の表情がきょろんとしていて饒舌ではあるが、それを「黒」という色が引き締めていて、魅力的である。残念ながら私が最も好きな作品は販売されていなかったが、店内も程よくすいていて(街中はすごい人だったぞ、寒いのに)観やすくて、よかった。
それにしても先月、今月と、私の本の購入金額はちょっとしたものかもしれない。展覧会を観にいった際にも5冊買ってしまった・・・まあいいや。正直に言って、欲しい本も、読み直したい本も、たくさんあるのだがアタマと手と時間が追いついていないのが現状である。

この展覧会に出かける前に、寒さに臆してヒーターの前に座り込んで漫然とテレビを点けてみたら、大河だラマ『秀吉』の総集編をやっていて、思わず見てしまった。私個人としては、「秀吉」という人の人間ドラマが面白くなるのは天下を取ってからである。なにぶん総集編なのではしょってはいるのだが、過去の自分を抹殺し、天下人にふさわしい「高貴な自分」を捏造していく様が切なくもばかばかしくてよい。同様のドラマが前半においては織田信長において展開される。信長は、生まれは秀吉に比べればやんごとないのであるが、自分の孤独と何かを信じることに対する不安や恐れを自分を「神」とすることで払拭しようとする様は、非常にサディスティックで、よい。自分の姿を鏡(ご神体)に映してじっと見入る様や、妹であるお市の方に自分が殺害を命じた彼女の夫・浅井長政の髑髏杯で新年の酒を飲ませるところなどは「ああ、人の「気が触れ」てしまうのはこういうときなのかもしれない」などと思いながらみていた。動作としては単純かもしれないけれども「それをしてしまっては自分の全部が崩れてしまう」という行為が人にはあるような気がする。それがこのシーンでは「酒を勧め、酒を飲む」という行為だったように思う。いわば「踏絵」だ。しかし「飲む」(「飲ませる」)という行為が「踏む」(「踏ませる」)ことよりもずっと生々しいではないか。こんなやつ、もしも自分のそばに居たら、力の限り憎むか、愛してしまう以外、側に居ようがないだろう。そういう意味で、実生活で出会ってしまったならとんでもない感じだが、ドラマだから、まあよいのだ。彼らの人生がこんなに面白いのは単に「大きなことをやったから」とか「アップダウンの多い人生」だからだけではいだろう。その生き方が切実だからだというような気がする。

おっと、こういうことを書くつもりで書き出したのでは、実はなかったのだ。主人公の「秀吉」、信長以外に、このドラマの中でもう一つ気になったのが、「茶の作法」なのである。この時代、彼らにとって「茶」というのがどういうものだったのか、それは恐らく今日とはずいぶん意味が違うだろう。茶室は政治的な密談の場でもあり、はたまたそれから逃れて君主がひとりになる場所でもあったようだ。そういう意味で、「茶」がそれでしか取り持てない人の縁を取り結ぶ役目も果たしていたようだ。中には無理やりに人と人とを引き合わせるべく点てた茶もあったのかもしれない。ともあれ、時代をへて茶道というものは今も引き継がれており、茶の湯の魅力とは何かなあ・・・ということも、改めて考えてしまったのである。

元旦に、いとこが点ててくれたお茶を飲んだ。気楽な中にも、一応作法に則り、畳の目16目後に下がって坐り、京都の正月のお菓子「花びら餅」とともにお茶をいただくのだ。普段は気にもとめないことではあるが、お茶碗を手に取るにも、作法の中には特有のやり方とその理由が在る。例えば、お茶碗を左手の掌に乗せ、右手の親指と人差し指を添えて茶碗を支えるやり方は、普段マグカップやどんぶりを、抱えたりつかむようにして持っている手には心細いような持ち方に思えたりする。見た目はともかくとして、持つ者の感触として、茶碗へのコンタクトゾーンが非常に少ないからだ。そのように「最小の接触で、しっかりと」茶碗を支えるやり方をするのは、それ自体が工芸品でもある茶碗に指紋や手垢がつくのを極力さける配慮からである。そのように、茶道の作法の中には単なるスタイルではないミニマムでタイトな動きが多い。
そのようにして、何気ない動作を「お茶」を通して考える機会を得ながら、改めて思ったことは、いかにひとの普段の動作の構成が感覚に溺れやすいやり方で構成されやすいかということだ。コンタクトゾーンを最大にし、びったりと抱え込むようにしれば「ちゃんと支えている」「安全」と思い込むことの、なんと容易いことか。でもそれは自己満足に過ぎないわけである。それに、せっかくお茶をいただきながら、茶碗の形も模様も、自分の手で隠してしまって見えないではないか。
拡大解釈かもしれないが、人間関係も、物への執着も、そうしたものかもしれないなどと思ってしまったのですよ。新年早々。そのもののよさを生かし、自分のよさも引き出してもらえるような触れあい方ができるように、今後も精進すべきだな、などと殊勝にもすなおに思ってしまったのだった。

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