えこひいき日記
2003年1月24日のえこひいき日記
2003.01.24
1999年に出版された『アレクサンダー・テクニークにできること』は大体年に1回くらい増刷されて、これで4版目となった。その第4冊の贈呈本が、今日手元に届いた。まだ誰かがこの本を必要と思ってくださることは、やはり嬉しいことである。
時期を同じくして、別の原稿の入稿準備が始まった。年末に原稿をあげ、年始に原稿を送ったので、割と早いペースでことが進んでいるような気がするのだが、こうした作業は(丸ごと1冊自分の文字で埋められた本を作ることは)初めてなので、なんだかどきどきである。それと同時に、これは原稿を書いていたときにも感じたことだが、「こんなんでええんか」みたいな気持が湧き上がってきて、いささかおろおろもする。この原稿を書くに当たって、カットした文章は本文の約倍はある。そこを盛り込むと、さらに原稿の量が増えてしまうので今回はカットしたのであるが、内容的にいまいちだからカットしたとは限らないのもあるので、いまさらながら迷う。しかし本文を読むと「やはりこっちのほうがいいかー」などとも思う。書き足りないこともたくさんあるけれども、ある一つの流れとして書こうとすると、言葉は制約を受ける。よくも、わるくも。編集さんに「こんなんで大丈夫でしょうか?わかりにくいところとかないですか?」と聞くと「いえ、結構オリジナリティがあって、含蓄に富んでいます。」と言われた。一瞬「?含蓄に富む、ってどういうとこがや?」とも思ったが、ともあれそのココロは「やめませう、というほどひどい出来ではない」ということなのだろうし、とりあえず胸をなでおろす。
最近、ニュースを見ていても気が滅入ることが多い。暗いニュース、多いからね。そのニュースが「暗い」のは、自分のリアリティでは信じられないことが多いからだ。何がどうなったら、そういうことを「しよう」と思えるのか、わからない事件が多いからである。例えば「人を拉致する」とか「他国への攻撃をする」ことをどうして思えるのか、自分自身のリアリティからはすぐには生み出しえない考えであり、行動である。ニュースでは、その事情も説明してくれたりする。そういう情報をもらっても、やっぱりよくわからない。つまり、賛成は出来ない。わかるのは、そういう事実があるということだけである。「他人」だからどうなってもいいや、ではなくて、自分が恐らく一生会うこともない人たちだからこそつつがなく勝手に無事でいて、と思える方が何となく私は気が楽なのだが。「非・自己」を簡単に攻撃や蹂躙の対象としたり、その権利が自分にあるような気持ちになるのは、さびしい自己観だな・・・という気がしてしまうんだが、そんなの、私だけだろうか。
日本語は通じるけれど、コミュニケーションが取れているわけではない・・・ということがどういうことなのか、歳を重ねるごとにわかってくる。時にそれに絶望するけれど、それを理由にコミュニケーションをとることを止める、というふうにはならないのはなんでか・・・と自分でも思うことがある。でも、答えは多分単純で、「やめる」ことが解決ではないから止めないだけの話だと思う。
さまざまに悩みの種は尽きないけれど、悩まないんではなくて(悩みを否定したり、感知しないのではなくて)、すこしだけ「わかる」方向へ物事を進められる思考とか、観察とか、判断の力をもてればいいな・・・と思う。だから及ばずながら本を書くのだし、レッスンをしているんだろうな、と自分で思うのだ。