えこひいき日記

2003年1月29日のえこひいき日記

2003.01.29

文章の文体としてすてきだなあ、と思う文を書く人が私には2人いる。ひとりは渋澤龍彦であり、もう一人は白洲正子だ。「いい脚本を読むと、吐き気がするのよ。それがいい脚本のサイン」と言ったのはジュリア・ロバーツだったけれど(「アクターズ・インタビュー」というテレビ番組でね)、渋澤龍彦の文章をはじめて読んだとき(高校生でした)、私も吐き気がした。しかしそれは拒否感ではなくて、私の思考の消化能力をフルに動員せねばならない「食べ応えのある文章」だったからだ。最初に本当のチーズの味を覚えたときのような感じだ。情け容赦ないくらい芳醇で複雑だけれども、それが「おいしい」ってことなのか、と飲み込んでから気がつくようなものだ。
白洲正子の文章で最初に読んだのは、確か『両性具有の美』だったけれど、その潔い、さっぱりとした文章に思わず笑ってしまった。あまりに痛快だったからである。後に偶然、生前の彼女に会ったことがある人が知人にいることがわかり、そのことを話したら「いやいや、本人はね、結構嫌なおばあさんだったよ」と言っていたが、それもまあそうだろうと思う。あんな文章を書ける人間が誰にとってもただの「いい人」である方が不思議だ。いつぞやちょっと読んだ『芸術新潮』にも、彼女が結構食道楽で好物の料理を子供のように娘さんにねだったり、「この料理にはやはりこのお皿の方がよい」といってどんどんお皿を汚してしまったり(もちろん白洲正子さんは片付けはしない)、「どこどこの国ではこうやって食べるのよ」などといって、料理された肉や魚の骨などをぽいぽいと床に撒いてみたり(もちろんそこは、日本のおうちの中なのである)といったエピソードが紹介されていた。でも、そういいつつも、その知人の口調にはどこか温かみがあったのは、彼も理解していたからであろう。人間の「旨味」は料理のおいしさと一緒で、単一単純な感覚ではないのだ。

『白洲正子の世界』という展覧会が近くで開催中なので行ってみた。以前、森遥子という小説家がその小説中で登場人物に「日本でリアリズムというと、悲惨さとか、貧困や暴力の描写だと思いがちだけれども、貴族的な気品のリアリズムというものもある。ヴィスコンティがよい例だ。本当にリッチな人間は貧しさの世界も描ける。でも逆はありえない。」と言わせていたことがあったが、それでいうと白洲さんの感性はまさしく「貴族」である。それは生まれのことを言っているのではなく(それに因るものでもあるが、そのことばかりではなく)、私流の言葉でいえば、あらゆるものに対してまず「ふつう」に振舞える強さを備えているということである。例えば「貧乏」の反動で「お金」や貴族的な「豪奢さ」に執着している場合、ただそれを見ているだけで、実はその物が持つ本質的な存在感には気がつかないままであることも珍しくない。「お幾らぐらいするものだから」とか「誰が作ったもの(デザイナーやブランド)だから」に自分との関わりを見出すのではなく、自分自身がどのように関わるかをその目で見極め、その責任と誇りを自然に背負える人間は美しい。だから、展示されているものはほとんど日常的に彼女が使っていたものである。私も骨董などは飾っておくものではなく使うものだと思っているが、とても古くて貴重なものを、けしてぞんざいに扱うのではなく、さりげなく日常生活に配しているセンスは、生き方として見習うべきものがあると思う。

展示物の中でひときわ気になった能面があった。もちろん他にも色々「わー、ほしい」と思うような品々がたくさんあった。特に特大の李朝・虎足膳などは、ほんとに盗んで持って帰りたいくらい気になった。が、その能面については「欲しい」というよりも、なんだか目がひきつけられたという感じだった。彼女は文章の中でしばしば「私はお能しか知らない」と書いていたことがあった。その言い方が面白くて記憶しているのだが、確かに本を拝見していると、彼女の認識世界は「能」の形式で成立していることが多いようだ。そんな人の所蔵品展なので、能面がいくつか出展されていても不思議ではないのだが、なんといったらいいのだろう、それを見たときに私の中で初めて「面をつける」ということがいかなることなのか、すこし実感できたような気がしたのだ。
能面は3点あり、私が気になったのは「老女」の面であった。実物をみる機会がある方は見ていただくほうが話が早いのだが、室町時代初期に作られたというこの「老女」の顎のラインはシンメトリーになっていない。それが最初からの造形なのか、長い年月の末にそのようになってしまったのかはわからないが、ともあれそのことが単に造形的な「ゆがみ」ではなく、面の下に多くの年月や感情を飲み込んでかたちになったもののように思われ、なんだか本当に人間の皮膚をはいで面にしたようなリアルさを感じた。高橋由美子の『夢の通い路』という小説の中にも「顔についてはなれなくなる能面」の話が出てくるのだが(無理やり剥ぎ取った面の内側を見ると、そこは人間の肉のようにうごめいているのである)、それがただのファンタジーではなく、「そういう話がからだの中から湧いてくる」のもうなずけるような気がした。以前、初めてまともに能楽堂で能を見たときに、退屈などころか、すごい「テクノ」というか、ある種の強烈な「トランス」を感じて、よくもまあこんなものを作りあげたものだと思ったが、今回またその面を見て、面をつけるということが演劇的?なトランスである感を強めた。面をつけ、面の持つキャラクターに身を任せながらも、ただ面に使われるのではなく、面を通してその内の世界と外の世界をつなぐことのできる強烈な自己がなければ、舞いきることなどできないだろう。面はその人間の顔を隠すものではない。むしろ赤裸々にその顔を現すものなのだということが、その面を観ているときに怒涛のように頭を駆け巡っていた。

余談だが、展示の面はいずれも「丹生神社」の所蔵とあった。ちょっとひっかかることがあったので、会場で売られている書物を見てみると、やはりそれに関する記述のある本を発見した。そこに書かれていることは、去年私が行ってきた「お水巡りの旅」とまるまるかぶるところが多く、まじめに驚いてしまった。(詳しい内容は楽しすぎてうまくかけない)私がまだ幼い頃に、おんなじ様なことを考えておんなじ様なことをした人が本当にいて、それが白洲正子さんであることが、なんだかまじでびっくりなのであった。

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