えこひいき日記

2003年2月11日のえこひいき日記

2003.02.11

展覧会や舞台、あるいは食事をしにいくのに、誰と行くかについて、最近とみに考えるようになった。
一人で味わうほうがよく味わえる展覧会や食事がある一方で、誰かとその空間を共有することがより味わいを広げることがある。そのような空間の共有者と出会えることは、恐らく稀有のことなのだと思うのだけれども、だからこそそういう味わい方が出来たときの幸福は大きい。
その「誰か」とは自分にとって気の置けない身近に感じる人、いわば自分が「好きな人」であることはもちろんなのだが、けれど「好きな人」といけば幸福な体験が出来るかといえば、そういうもんでもない。残酷な言い方だが、かえって邪魔に感じるときもある。
すごく「いい人だなあ、いいセンスを持っているなあ」と思う人物なのに、一緒に食事をするとどう贔屓目に評価してもご飯をおいしく感じられない人物というのが私の友人に一人いるのだが、なぜなのかがかねがね不思議であった。考えた末、私なりの感覚で申し上げるなら、これは感覚エネルギー(物事を感じるために費やすことのできるエネルギーというか、体力の総量)のバランスの問題であるようだ。その人物は食事をしながらも、ついおしゃべりとか対人に費やすエネルギーが大きくなってしまって、「食事」に注ぐ感受性が希薄になり勝ちで(つまりは私よりも「食」に対する興味が薄いのであろう)しかもそのバランスがどうやら他の友人たちよりも著しいのだ。その人物は、別につばを飛ばしながらマシンガンのように喋り捲っている、というわけではなく、そのしゃべり口調はいたって穏やかであるし、話の内容も面白い。だが、どうもこの人物は基本的に人間に対して緊張しており、自分の感じたことや四方山のことを言語化するために過大なエネルギーを消耗するらしいのだ。だからコミュニケーションを成立させるのに「食」を介在させるには「間が悪い」んだと思う。なんでもないようなことだが、お話の合間に箸を運ぶタイミングとか、話を聞きながら飲み物に手を伸ばすとか、そういうしぐさの「間合い」、しぐさの「リズム」が微妙にぎこちないのだ。音楽でいうと「へんな合いの手」や「手拍子」のような感じかもしれない。だからその人とは食事をせずにしゃべるほうが面白い。「食事にでも・・」ということになっても「おいしいものを食べられる」ことは諦めたほうがよいと、この人物との付き合いでは思うようになった。
私とて、恋人と一緒に演劇などを観に行っても相手のことが気になって演劇に集中できないから、かえってそういう人とは「気が散る」、つまり感受性を複数の方向で同時に使わなくてはいけないような行動をする場所には一緒に行きたくないことがある。相手が私以上に舞台に集中してもそれはそれで腹が立ったりする。
その一方でこの「気が散る」ということをうまく共有できる相手と場を共にできることの喜びは、大きい。私一人では手の届かないところまでも届くことが出来るからだ。この場合の「気が散る」とは単に「ばらばらになる」ことではなく、「すみずみまで行き渡る」とういう感じだ。ちょうど霧吹きで吹いた水の細やかな水滴が空中を漂って部屋全体を潤していくような感じだ。一緒に食べるケーキの味は自分ひとりで食べるよりずっとおいしく感じられるし、展覧会に行っても一つの作品から感じられるものが広がる。そういうときに体験した感覚というのは、記憶に深く残って、きっと忘れないと思う。そのときにその人がしていたしぐさも、ひょっとしたら「その人の記憶」となって忘れないかもしれない。

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