えこひいき日記
2003年3月16日のえこひいき日記
2003.03.16
約10日ばかり前に原稿の初校というものが出来上がってきて、チェックを入れているのだが、チェックしているうちにあちこち直したくなってしまい、今ちょっと原稿を書き直したりしている。大筋では最初の原稿と同じなのだが、文章の表現とか、順番とかが、なんとなくしっくり来ないような気がして、手を入れている。何となく妙な気分だ。原稿を書いている最中も何度も「こんなん、あかんわ。こんなん絶対あかんわー」という精神的クライシスに見舞われたが、これはどうやら明確に終了があるものではなく波状攻撃をかけてくるものらしい。少しだけ冷静になった頭でならわかることなのだが、「あかん」という思いに根拠はない。具体的にどこが悪い、とか、まずい、ということを感じているのではなくて、「こういうことを書いて、興味を持って読んでもらえるのだろうか。うまく人に伝わるんだろうか」ということへの不安なのである。ただ身がすくむほど不安なのだ。それはそのまま「読んでもらいたい」という気持ちの別の表現でもある。
丸ごと一冊自分だけで書く本はこれが初めてなので、そういう自分の気持ちのアップダウンを眺めるのは、興味深くもなんだか奇妙な感じだ。1冊の本が出来上がるまでに、自分の気持ちはいろんなふうになって、そしてそれを潜り抜けるもんなんだな、などと妙に冷静な「私の中の私」の一人は思ったりしている。翻訳本を出したときはそれはそれでけっこうしんどかったが、基本的に「原著者の本」なのだし、自分が力を尽くせることは限定されている。共著のときは、分量的にも雑誌の原稿くらいだし、自分が忘れ果てた頃に本になったので、けっこうあっけなかった。だが、書き下ろしの原稿というのは、締め切りも別になくて、私が書けなきゃ終わりなわけで、そういう楽しさと苦しさはやってみなくてはリアライズされなかったものだ。「こんな気持ちになるもんなんだなー」と、いちいち感じながら書いている。
唐突だが、最近の私は抹茶を点てることにはまっている。1週間前くらいからカフェインを摂取してもそれほど動悸が起こらなくなったせいでもあるのだが、このくらいの季節、なぜかコーヒーよりも青い苦味と甘味のある抹茶がおいしい。
茶道具専門店や、ちょっと高級な通販雑誌のページを開くと「野点セット」というのが販売されている。専用の手提げ籠の中に抹茶椀と茶筅、茶杓、棗が納まるようになったセットで、この籠を持てば「どこでも茶会」ができるわけだ。しかし往々としてこうした立派なセットは高い。ので、私としては自分の身の丈にあったお値段の道具を一つ一つそろえてみることにした。こういうお買い物は時間がかかるが、楽しい。そして私は一旦思い立った欲望を抑えない人間である。私は出来るだけすぐに、欲しいものが、欲しい。自分でもあきれるが、ほんとにそういうことに我慢がなくて、欲しいものを手にするためにかける時間と労力は苦労だとは思わない。
茶碗は、あまり高くなくて、かわいいが落ち着きがあって、手触り感がカジュアルな感じのものを選んだ。白地に青い花?にもみえる、ちょっと抽象的な柄の椀と、カフェ・オ・レ・ボウルにも使えそうだけれども、素材が「和」で、色合いも渋い小ぶりの茶碗の2種類を購入した。ベトナムの白磁のお椀も、いいな、と思ったのだが、持ったときの重みがちょっと気になって、今回は購入を見送った。(こっちの方がバーゲンしてて、安かったんだけどねー)茶筅は野点用の最も小ぶりなもの。茶杓も最も廉価なものを購入した。棗は、ほんとはシュガーポットなのだが、小ぶりでお気に入りのものがあったので、それを転用することにした。ところで籠は、どうにも気に入るものがないので、まだ購入していない。しばらくはこれら一式を椀の中に「入れ子」のように仕舞って、風呂敷かなんかで包んで、それをバッグに入れて持ち運ぶかな、外に出るときは、と思っている。あと、小さい魔法瓶も買った。本当はその場で湯を沸かすほうがよいのだが、これに湯を入れて持ち歩くことにしようと思っている。今のところ、まだ出動していないんだけどさ。
抹茶は、意外とモンブランなどのクリーム菓子と合う。抹茶を点てたときの泡もカプチーノのようでクリーミーなのだが、その優しい苦味と、甘さを控えたクリーム菓子との相性はなかなかだ。生チョコなども合うな。もちろん和菓子も会うのだが、あんこを使ったものなら緑茶やほうじ茶の方がおいしいときもある。あんこを使わない、練りきりのようなものなら、上品で抹茶によいかもしれない、などと勝手に思うのであった。