えこひいき日記

2003年4月3日のえこひいき日記

2003.04.03

今年の桜は、やや出足が遅いといわれていたが、おかげで入学式シーズンにも散り初めぬ桜が見られそうである。来週には北海道から来てくれるクライアントさんも来京するのだが、この時節に来てみると、たいてい「まだなんとか散り切っていない桜」を眺めることになっていたので、すこし残念だったのだが、今年は満開の桜を見てもらえるかもしれない。

お花見というのは、考えてみれば不思議なものである。お花見といいながら「花を見る」ことが目的なのかというと、そうではないような気がする。植物観察のように花を見ることが目的なのではなくて、花のある「風情」を楽しむことがお花見の醍醐味なのではあるまいか。お花見に漂う雰囲気は、ピクニックとも違うし、遠足でもないし、どういうパーティーとも違っているような気がする。茶道とともに、「お花見」という風習を持つ日本に生まれたことは、なんだかすごくラッキーな気がしてしまう。

桜の季節になると、律儀に脳裏を掠めるエピソードがある。それは、確か高校のときの国語の先生がしていた「お花見」の話である。その先生は、まだ若く、恐らく当時が初めての教職だったと思う。その先生は、花見の季節になると、ひとりでお酒を持って桜の下に行くのだそうである。一人で桜を見ながら酒を飲むわけだが、あるときに、酒を注いだ杯の中にひらひらと一片の桜の花びらが舞い降りてきたのだという。それを見て、彼は「桜が、来てくれたのだ」と思ったのだという。そして一人で泣いた、という、そういう話であった。
当時高校生だった私は、生徒の前でそのようなエピソードを国語の授業中に話してしまう先生にある種の好感を覚えると同時に、こういうことを不特定多数の前でしゃべってしまうことにある種の不信感も感じ、何より圧倒的に「何とまあロマンティストな男だろうか」と、半ば呆然とした気持ちでその話を聞いていたように思う。
でもその話の中にあるエッセンスは、私のなかにも根をおろしたようである。だから、桜の季節になると、ふとその話を思い出す。私は桜の下で一人でお酒など飲まないし、泣かない。でもこの季節、桜の花を見かけるとずーっと上を見上げて歩いてしまったりするし(実は月を見つけてもそうやって歩いてしまうのだが)、こうしてこのように飽かず眺められるのだろうかと、思ったりはする。桜の花はつぼみが膨らみ始めるとあっという間に花になり、あっという間に散ってしまう。あっけない、はかない、といえばそうだが、そのはかなさを惜しんで長くとどめようという気持ちは、不思議と働かない。盛りのときに精一杯咲くのが花だと思ってしまうのかな。惜しむより、その美しさを愛しみたい。目の前にあるときに。
失ってからその存在に気がつくことなら、誰にでもできるのだ。

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