えこひいき日記

2003年4月6日のえこひいき日記

2003.04.06

普段「からだの使い方・使われ方」という、その人にとっては常識化した・・・しかし最適とは限らないこともある・・・「くせ」や「個性」の問題を仕事にしているせいか、あるいはもともとそういうことに対する興味の一端が仕事になったのか、わからないが(たぶん後者だと思うんだけれども)「常識がいかに常識化されて成立していくものなのか」が気になってしまうことがある。

例えば先日は「トマトがヨーロッパに入る以前のイタリア料理とはどんなものなのか」が猛然と気になってしまい、ちょっと調べてしまった。個人的に私はトマト好きなので、トマトなきイタリア料理など「考えられない」のだが、しかしトマト自体はおよそ300年位前にアメリカ大陸からもたらされたものであるから、それ以前のイタリア料理にトマトが使われてはいなかったはずなのだ。現在でこそ「イタリア料理」といえば「パスタ」、そしてパスタソースのベースを成す「トマト」の存在は欠かせないものだが、もとから「欠かせない存在」というポジションにあったわけではない。ではいかにしてトマトはイタリア料理の中で「欠かせない存在」となったのか。それ以前はどのような料理がメインだったのか。・・・突然そんなことが気になったのである。
「トマトなきイタリア料理」に続いて気になったのが、お茶である。ことの始まりは最近、抹茶にはまったことにあるんだと思う。先日の仙台出張にも「野点セット」を持参したくらいだったのだが、そうやってしゃかしゃかと毎日お茶を点てているうちに、「お茶」と一口にくくるにしても、それぞれ淹れ方も違うし、そうすると使うお道具も違うし、そういうものはいかにして今のスタイルになっていったのだろう・・・ということが気になってきてしまったのだ。先日、仙台ですごいコーヒーを飲んでしまった、という話はこの「日記」にも書いたが、例えばコーヒーとて「ドリップ」というスタイルが一般的になったのは近代のことで、それ以前はコーヒーカップに挽いた豆とお湯を入れて、豆が沈むのを待って、ソーサーに上澄みをこぼして飲んでいたのだそうだ。だからコーヒーにおいて「コーヒーポット」というものが登場するのはわりと最近のこと、ということになる。コーヒーポットにすぐ飲める状態のコーヒーを淹れるための道具も、それと同時期に発明されたのだろうから、それ以前には存在しなかった道具ということになる。そんなことを想いながら、日頃使っているペーパードリップ用のドリッパーをみてみると、なんだかしみじみするのである。

そんなこんなで、昨日、仕事の合間に「平安時代初期の喫茶文化と焼き物」という博物館で行われる講座を聞きに行ってしまった。この時期に遣唐使がもたらした最新の大陸文化とともに、「お茶」がもたらされた話は有名であるが、それがどんなお茶だったのか、どういうふうに飲まれていたのか・・・自分なりの「絵」を思い描けないことに気がついたので、知りたいと思ってしまったのだ。
毎日、何らかのかたちでお茶を飲む自分だが、しかし「喫茶」という文化がなぜこんなにも人を魅了するのか、不思議な気がする。それは日々の摂食と同じように、経口して胃袋に納まるという「肉体的な」行為でありながらも、「お腹がすいたから」「喉が渇いたから」という身体反応に応じて成される行為とは、すこし違う。肉体的な飢えや渇きではない渇きを潤す行為のように思う。それに最初にハマった日本人とはどういう人であったのか、ちょっと興味が湧いてしまったのだ。

講師の先生は博物館の学芸員をされている方で、最初からハイテンションであった。お話の盛り上げ方もそうなのだが、とても早口なのである。だから1時間半くらいのはずの講義は1時間で終了してしまった。本人も「自分でもすっと暖めていたテーマだから、たっぷりしゃべるつもりだったのですが、終わっちゃいましたね」とおっしゃっていたが、多分、アメリカから帰ってきたばっかりの頃だったら、聞き取れなかったかもしれないくらい、口調も話の展開も早いのである。なんだか、本人もしゃべりたくてしゃべりたくて仕方がなくて、言葉に押されてしゃべっているようにも見えた。ついていくのはハードだったが、講師は楽しそうだったし、私も楽しかった。
ここにその講義の内容を全て書き写すのもなんなので、極私的に感想を書かせてもらうと、それは日本で最初に作られた「茶碗」、つまり「お茶を飲むため(だけ・専用)の椀」の始まりを巡る1時間のミステリー・ツアーである。「そんなん、どうでもええやん」という人には、何で「茶碗」ひとつでここまでわくわくどきどくきエキサイトしてしまうのか、わかんないかもしれないが、鑑識捜査のような緻密さと、探偵のようなしつこさで、物事を突き詰めていくのはやはり楽しい。というか、自分にとって時間や労力を賭しても「突き詰めたい」と思うようなものと出会えることが、すごいことなのかもしれない。

ちなみに、多分日本最初の喫茶愛好家であった嵯峨上皇が飲んでいたのはお煎茶の類であったようだ。日本の記録ではないが、中国で「茶聖」と呼ばれた陸羽の『茶経』という書物の中に、器の色とお茶の色の話が出てくる一説がある。それによると「白磁の茶碗に入れると茶の色は赤みを帯びて見えるが、青磁の器ならば茶の色は緑色を帯びてみてるので、よい」という意味の記述があるらしい。だから、どうやら日本で最初に作られた鉛釉の器だったらしい。
嵯峨上皇は、どんなときにどんな顔をしてお茶を飲んでいたのだろう。想像してみると、ちょっと楽しい。

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