えこひいき日記

2003年4月17日のえこひいき日記

2003.04.17

具体的に、意識的に、気になりはじめたのは、先週博物館で見た「空海像」の右手からだった。これは空海(弘法大師)を表すときの代表的なポーズらしいのだが、肘を折り曲げ、胸の前にある掌が正面(像を見るものの側)を向くように下腕を旋回させた状態で密教の法具を手にしている。なぜわざわざこのようなポーズをとるのか・・・ということが今まで以上に気になってしまったのだ。単に法具を持つにしては、不自然な手つきだが、だからこそ「このかたちをとる」ことにこめられた意味が気になってきてしまったのだ。

仕事上、瞑想とか、気功とか、太極拳とか、ある流派のヨガ、あるいはダンスなどをされておられる方を教えることは多い。これらの技法では、身体技法としてある種の型や一連の動作を行うことがされているのだが、その肉体の扱いはスポーツやフィットネスでいう「肉体」の扱いとはすこし違うものがある。つまり、身体を使うし、それにより身体の機能も高まったり健康になったりはするが、それは俗に言う「体を鍛える」ことが目的の行為かというと、すこし違うように思う。物理的な身体のパフォーマンスを変化させることや変形が目的の行為・・・例えば、筋肉や筋力の増量を目的とした運動・・・というのではなく、「身体を使って」ある状況に「自己」を導く、という技法のような気がするのだ。ここでいう「自己」とは心的な意味(「こころ」)のみならず、「身体を伴った存在」と解釈した方がよいだろう。
これらの技法では、定められた特定の動作を行うわけだが、ただ物理的にポーズをとり、肉体を動かすことが目的ではない。しかしそれでさえ時間と労力をかけて稽古しなくてはならないものだから、時にはそれにかまけすぎて、おかしなことになってしまうこともある。
それで私のような者の出番となるわけである。別に動作の順番を間違えているわけではないし、ポーズも取れているのだが、何かがおかしい、しっくりしない・・・そのような自覚を持った方がレッスンに来てくれるわけである。以前の「えこひいき日記」にも書いたことがあるが、私は普段「気」というもので積極的に身体を認識しないが、「からだの使い方」が正確になると、はっきりと動きが変化し、本人もより気持ちよく自然な感じで動くことが出来る実感を得ることから、間接的に「こういうことを「気」と呼んでいるのではないかしら」と思うことはよくある。
しかし考えて見れば、あからさまな間違いを犯しているわけではないのに、自分の身体を「正確に」使っていないと、これほどまでクオリティの違うものになってしまうというのは、考えてみるとちょっと怖いことかもしれない。気がつかなければ、多分一生気がつかない「違い」だもんね。
身体に溺れず、身体を使いこなす・・・そのことによって見えてくるもの、それをしっかりと捉えるためには、自分の身体というものを正確に知る必要があるが、単なる知識や概念レベルの理解の段階では完成ではない。それは単に「動ける」ということが動作の完成を意味しないのと同じだ。

又聞きした話なのだが、宗教学者の山折哲雄氏が「仏像の前でその手の組み方をしてみると、気を出す手の組み方と、吸う組み方があるのがわかる」とおっしゃったことがあるそうだ。それは彼が病気になりそれから回復された時期あたりに高まった身体感覚でもあるらしいが、私なりに、感覚的に、わかるような気がする。時折、僧職や神職にある人たちから「より明確な三昧の境地に入るために、からだの使い方を学びたい」というお便りをいただくことがあるが、それもまた身体をどのように扱うかが人間の全体的な知覚にどのような影響を及ぼすものかを、経験的に知わかっているからであろうと察する。
書き方を間違えると、ただの怪しい話で終わってしまいそうなのだが、例えば、気功をする人などを教えていて、一連の動作をしてもらいながらその動かし方を指導し、「からだの使い方」がその人にあったものになってくると、その人のする動作によって動く「気」がそれ以前の動作の仕方によって動くものと、質的にも量的にも違ってきて、こちらもしっかりと自分のからだを使って立っていないと、あおられそうになることがある。それはけして攻撃的な波動ではなく、まるで海の中に入っているかのような「うねり」なのだが、そのうねりの中にありながら、流されず、倒れず、かといって逆らわず、ちゃんと立っているためには、こちらがきちんと自分のからだを保ちながら立つ以外にない。少なくともレッスンの場ではそれが出来なければ指導者として私はお役に立てないわけで、ごく「あたりまえ」のことなのだが、例えばこれがレッスンではなく、道場で「外気」と呼ばれるような気の力で相手を倒すような使い方をすれば、そのようなことも起こるのかもしれない。ただ、私の感覚では「相手を倒す」という攻撃的な意思を持つことで「倒す」というよりも、相手がそのように体勢を変化させることが自然であるように「うねり」をもっていく、という感じがするのだが、どんなもんなのだろうか。
やや批判めいた書き方になってしまうが、「気で相手を倒す・倒される」という稽古の仕方に慣れてしまっている人の中には、実際にはそれほど「気」を感じていないにもかかわらず、倒れてしまっていた人も少なくない。それめいた気配を感じると、もう「お約束」として倒れてしまうのだ。要するに、フライングであり、実際に起こっていることに反応しているのではなく、概念に反応しているに過ぎないのだ。そういうことは他の動作でもよくあることだが、気功だけには起こらないというものでもない。どこにでもあることなのだろう。
「気が通った」などと発音してしまうと、それで事態が完成したように感じがちだが、どうやらことにはバラエティーがありそうなのだ。だから仏像と同じ格好をすれば自動的に「気を吐いたり吸ったり」ということになるわけでもあるない、と思う。全く出来ない、というのでもないのだろうが、ちゃんとやらないとちゃんとはできない、とも思うのだ。

そんなこともあって(?)京都国立博物館で行われている『空海と高野山』展を初日に観にいってみた。それにしても、密教は派手だ。(密教が、というより仏教はなかなか派手みたいなのだが)仏像がずらりと展示され、巨大な曼荼羅や経典が並ぶさまは圧巻である。運慶・快慶の作である『四天王像』を見たときは、なぜか涙が出てきてしまった。
仏像の立ち姿は、西洋の、例えばミケランジェロの彫刻などとは、また違った「すがた」をしているように思う。私には、ミケランジェロはストップモーションのポーズに見えるのだが、仏像は、そのように連続的な動きを切り取った静止ではないように思う。ああいう「ワン・ポーズ」としてあらわされているのではなくて、コマ送りの画像で言うならその前後の画像からも幾つかのディテールを摂って組み合わせ、動かぬ像でありながら、動きを伝えるような要素がより強いような気がするのだ。
仏像の手の形はやはり面白い。特に数対の像で一つのグループを作っているようなものは、それぞれの手の形が違い、それが造形的なバランスのみならず、意味的にもそれぞれの力で「世界の包括」をしているように思えた。かえすがえすも面白いことだ。

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