えこひいき日記

2003年4月21日のえこひいき日記

2003.04.21

「タイミング」ということについて考えてしまった。「タイミングがよい」とか「わるい」とか、日常的に使う言葉なのだが、なにをどうすると「よ」くて、なにをどうしてしまうと「わるい」ということなのか、結果以上の意味できちんと理解していないような気もしたのだ。
私なりに感じる「タイミングのよさ」とは「するべきときにするべきことが、できる」という意味に思える。では、それが「できない」・・・しかもある事柄が完全に成立しないのではなくて「タイミングが悪いよね」という言い方で表現されるような、インコンプリートな状況として成立しうるのはなぜか。タイミングが悪い、とは、何が悪いことなんだろう・・・などと考えてしまったのである。

なんでそんなことを考えてしまったかというと、主に3つの出来事があったからだ。うち2つはレッスンの中での出来事で、一つはある演劇公演を見て思ったことである。
ひとが何かに対して疑問の意識を抱くのは、なにか不完全な感覚を通してであることが多いが、今回の私の場合もご多分に漏れず、そうであった。演劇の公演を観ていたときである。これは事務所の近所の劇場でロングラン公演を行っている劇団のお芝居であった。大掛かりなセットと、よく練り上げられた脚本、裏方的な見方かもしれないが、早い舞台転換をきちんとやりこなす技術はさすがで、これはロングランで公演しないともったいないよなー、というできばえで、観客の一人としてとても楽しませてもらった。ただひとつ、微妙なことが気になってしまったのだ。それは俳優のセリフと動作の「タイミング」である。俗に言う「タイミングが悪い」のではけして、ない。むしろ、「よすぎる」、というのだろうか、何かが引っかかった。俳優の動作の全てが気になったわけではないし、彼らは皆すごくうまいと思う。しかしときどきちくちくと、気になるのである。これはなんだ、と思ったのである。

そんなことを考えているうちの思い出したのは、つい最近の2つのレッスンでのことであった。

一つは、あるギタリストとのレッスンでのことであった。その方は、かれこれレッスンは5年目になる方で、継続的にレッスンを受けてくれている。手前味噌ながら、レッスンを通して彼のギター・テクニックはかなり変化したし、びっくりするくらい多様で繊細な音作りができるようになったと思う。どのような音色、どのような音の流れが欲しいときにどのような「からだの使い方」をするべきなのか、どういう「からだの使い方」をしているときにどんな音を出すことが可能なのか・・・レッスンのテーマはそのときどきによって多様だが、大体一貫してテーマとなっているのはこのようなことだろうか。私も彼とのレッスンを通して「ひょえー、ギターにこんな音が出せるのか」とか「この曲は、こういう曲だったのか」と、既成概念を打ち破る発見をすることは多かった。そういうのは本当に飽きなくて、レッスンが楽しい。特に最近は「音」と「からだ」の関係については、より繊細な段階でのレッスンが進行していた。
その日彼がもってきたレッスンのテーマの一つに、左手(弦を押さえる側)の指の使い方があった。このテーマはこれまでにも幾度となく行ってきているテーマなのだが、今回は「指の動作が大きいのにきちんと音が出る」ことに逆に不安を覚えて「確認したい」ということで、このテーマをもってきたのだった。これまではミスタッチを抑制するために、弦から指を離す距離は最小限がよいと思ってきたらしいのだが、どうやらそうでもないことがわかってきたのだ。指が自由に動く空間を考えると、これまで以上に大胆に動かしてもミスもせず、音も遅れず、きちんと弾けることがわかってきたのだが、慣れないことが実現されると、それがよいことであれ、よくないことであれ、変わらず不安を感じてしまうのは人情である。「よいこと」を盲信することが学習や向上ではない。それを一つ一つ、納得して自分のものにすることが学習なのである。だから彼が覚えた「嬉しい不安」もまた、非常にまっとうなことなのである。
実際に弾いてみてもらうと、曲の流れとしては申し分なく自然であると同時に、ビジュアル的にはかなり不思議な光景にも思えた。当たり前のことなのだが、音は、弦を押さえてから、弾かなければ、出ない。だからいつも「音」よりも先に「動作」がある。そうでなければ音は生まれない。当然なのだが、それがものすごくはっきり見える弾き方なのだ。それがゆったりした曲ならまだしも、とても早いアルペジオなどではっきり「みえる」のである。だから耳に聞こえる音が鳴っているときに、指は既に弦の上になく、次の音のために空中を動いている。理屈がわかっていても、ビジュアル的には不思議な光景である。一瞬、どうして音が出ているのかわからなくなる。しかしそれでいて音の流れも、動作の流れも、とても自然でよどみがないのである。

もう一つは、演劇をしている人たちのグループレッスンを教えていたときのことだった。「バランスをとる」とか「崩れる」とか、立位から歩き出すときの、そのあいだにある「バランス」とか、その「感覚」と「見かけ」ををテーマにしながらレッスンをしていた。どの「タイミング」で、どこに、どんなふうに、動作を展開できるかで、バランスを「とる」ことも「崩す」こともできる。ただ、観客に提示する「みかけ」はどちらの印象であれ、俳優やダンサー自身にとって「バランス」は常に自分でコントロールが可能な状況でなければならない。たとえ観客の目に「バランスを崩す」(こける、転ぶ、倒れる等等)に見えることを行ったとしても、それは演技者にとっては観客と同じ意味での「ハプニング」ではなく、「確信犯的出来事」でなくてはならない。しかし残念ながら、「本当に転ぶ」ことだけがその動作のリアリズムの全てであるかのように観客も演技者も誤解をしていることがある。
「バランス」の加減を握るキーとしてここにもまた「タイミング」が登場する。「タイミング」を逸して、重心の移動や関節の稼働が行われないと、「本気でこける」。つまり「バランスを崩す」。しかし特定の「タイミング」で重心の移動や関節での角度変化を起こすことが出来れば、それは単なる「姿勢の変化」や「動作の移行」であって、「バランスを崩している」のではない。仮にそのような印象を与えたとしても、本人にとっては「移動しながら、バランスをとっている(とれている)」ということなのだ。ちょうど柔道に「受身」という技があるように、単に打ち倒されるのではなく、自分の動作をどう扱うかによって、動作のバラエティーとクオリティーは大いに変化するのだ。
それらのことをぐるぐると思い出しているうちに、思ったのは、私が舞台を観て引っかかったのは、「動作」をする前に「セリフ」が飛び出るような状況があったからではないか、と思った。せりふを覚え、何度も稽古を重ね、次の展開や次のセリフも脳裏にあるのだから、そういうことがあっても不思議ではない。しかもロングラン公演だ。フライングを誘発する要素はいっぱいある。
日常生活でだって、よくあるだろう。「こうしよう」という思いがあるからこそ「1」「2」「3」の順番で行うべきことの「3」から思わずやってしまったり、というようなことはないだろうか。かすかなフライング。私だって、どわーっとパソコンで原稿を書いているときなど(ちなみに私はローマ字入力で書くのだが)今打つべきキーの1文字先、2文字先のキーを押してしまう、ということがある。それと同様の、アタマの中に青写真があるからこそのフライング。弦を押さえる前に弦を引いてしまうようなフライング。それが俳優たちのある状況の中にあったような気がする。それが芝居をいわゆる「芝居くさく」することがある。「芝居くささ」が悪いとは思わない。「くささ」が与える「安心感」が「うける(受け入れられる)」という現象だってある。リアリズムだけが演技ではない。特にプロダクションによっては、劇中劇のようなかたちで、意図的に使うべき時もある。だが、ちゃんとコントロールしていたのだろうか。多分、私はそれが気になってしまったのだ。
でも言っている自分にも、すごく厳しい要望をしているのは、よくわかっている。「よい」と思える1回の演技ができるまで何度でもテイクを重ねることが出来るフィルムや収録とはわけが違う。ロングラン公演の中で、一回一回の演技の「タイミング」を完璧に保つなど、奇跡に近いことだ。わかっている。でも、みてみたい、と思ってしまう。それはすごいエゴイズムだと思うのだけれども。
願望としてそのようなことを思うけれども、他人への要求としてそれを思うのはよそうと思う。他人様のことより、自分がまずどのようにそれに迫れるかが問題なのだ。

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