えこひいき日記

2003年7月8日のえこひいき日記

2003.07.08

ベランダの鳩が抱えている2個の卵のうち、1個が孵化したようだ。ベランダを見てみると卵の殻が転がっていた。まだ雛の姿は見ていないのだが・・・(しっかり親鳩がガードしているのだ)
それにしても親鳩は、私を見ても全く怖がらない。ベランダには植物の鉢があるので、時折水を与えるために鳩に近寄らなければならないのだが、鳩は全く動じない。安心してくれているのか、それとも・・・。

このくらいの季節は、クライアントでも海外からレッスンを受けに来てくださる方が割りと多いのだが、今日はクライアントとは別に、アメリカからお客様があった。彼女は、私が1999年に訳した本の著者(この人物は私の卒業したアレクサンダー教師養成期間の教授でもある)の姉の元夫の現在の妻という人で、日本人なのである。ひょんなことからお手紙を頂き、ときどきメールのやり取りをする・・・というつながりであったので、お会いするのは今日が初めてだった。会ってみると彼女はデリケートであると同時にとてもさっぱりとした方で、今は亡きDebbyの話や彼女の家族の話、本のはなしなどで盛り上がった。またいつか、是非、お会いしましょう、と言って、別れた。

話は全く変わるのだが、昨日は大阪に『七月大歌舞伎』を観に行った。『大歌舞伎』と銘打った公演は年に数回あるが、この初夏の季節に上演される歌舞伎は割かしわかりやすいお話が上演されることが多いように思うのだが、今回のも4時間をゆうに超える上演時間だったが、楽しめた。
今回観させてもらったのは『壷坂霊験記』『男女(めおと)道成寺』『名月八幡祭』という3つの演目であった。数ある「道成寺もの」の中でも男女で踊る今回の演目は初めて観るものであった。私見だが、歌舞伎に限らず、この「安珍・清姫」のお話をたたき台にした沢山の「道成寺」の演目の魅力は、メインの舞を見せる白拍子・花子(この場合は、最初女装して登場する狂言師と白拍子の男女なのだが)の「狂気」にあると思っている。手にする小道具を次々と変えて披露される高度な踊りの美しさ、華やかさ、引抜などの趣向も魅力だが、それらを駆使して表現される「狂気」が一種異様な華やぎで観客を巻き込む。その「狂気」にただ見惚れて、身を任せ、楽しむのが「道成寺」の醍醐味である。「安珍・清姫」の清姫の行為は、今風に言ったらストーカー。けして誉められた行為ではないが、「その事件から数百年後の鐘供養の席で・・」という「劇中劇」設定で展開される「清姫の狂気」は、すでに清姫という人物の身を離れて、ただ狂おしいほどのエネルギーとして花開く。狂っているのに、アナーキーなのに、それが美として花開くことを許される「舞台」というのは不思議な空間だな・・・などということを改めて思ったりする。この『男女・・』では狂言師の男性も最後は蛇身に変ずるのだが、やはり女性が変じる方が何倍も「いっっちゃってる」感じがして怖いのはなんでなのだろう。

一方、「男の狂気」を魅せるのが『名月八幡祭』である。お話としてはたわいもなく、江戸にちぢみを売りに来ている男が江戸の芸者に入れ揚げて破滅し、最後にはその芸者を切り殺してしまう、という話である(うんと縮めて言うとそういうことになる)。それを粋なセリフと間で見せていくのだが、このお話の切なさは、「完全な悪人」「完全な前善人」が登場しないところである。それを独特の間と形式で魅せてくれる。ちぢみ売りの新助さんは、まじめで純情で、そういう意味で「善人」なのだが、でも一本気すぎて思いつめるし、そういうところが男性として魅力的とは言い難く、だから芸者の美代吉さんに袖にされても、観客としてどこか同情しきれないところがある。一方美代吉さんも、粋で勝気で、けして「悪人」ではないのだが、どこかいいかげんで、勝気な分そこを人に損ねられると冷たくなるというどうしようもないところがあり、だから切り殺されても「彼女がすっごくかわいそう」という気持ちにはなり難いところがある。
そういう「わりきれなさ」「どうしようもなさ」がこのお芝居の魅力で、徹底して「芝居」だからこそ妙にリアルで、新助さんが全てを失って自失する場面などは「ばかだなあ」と思いつつも、胸が痛くなる。髪を乱し、時折引きつり笑いを浮かべながら、ついに美代吉さんを切り殺してしまう新助さんの「狂態ぶり」は、むなしく、切なく、それでいて演技としては素晴らしく、それゆえに観ていてすかっとするという、なんだか観ていて複雑な気分になるものだった。観客としては基本的に気分がよいのだけれども。
人の狂う様を見て「よかったわぁ」などと言えるのは、芝居ならではのことかもしれない。

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