えこひいき日記
2003年9月17日のえこひいき日記
2003.09.17
私の著作『アレクサンダー・テクニックの使い方 「リアリティ」を読み解く』を英語ではどう訳したらよいか、という問い合わせがたまたま相次いだ。ちょうど私が卒業したニューヨークの養成期間ACATからも会報誌に書き下ろしに関する記事を書いてくれ、という依頼があったところでもあったので、書き下ろしの目次のコーナーに英語タイトルを追加した。いちおう、”How to use the Alexander Techinique , a way to think about your usuality”というふうに考えている。日本語では「リアリティ」という言葉を使っているが、それは「自明のこと、あたりまえのように思い込んでいて、特に考えたり問いただしたりしないこと」という意味だと理解していただきたい。「あたりまえって、どうしてあたりまえなの?」とか「ほんとうにそれはあたりまえなのか」「何においてそのあたりまえは、あたりまえなのか」などを考える糸口として、アレクサンダー・テクニックを「使ってみる」ことを提案してみたものである。厳密には「リアリティ(現実感、実感)」と「ユージュアリティ(日常性)」は別のものである。日常的だが、実感のないことって、意外とある。「していること」と「していると思っていること」の食い違いは、大なり小なり誰にでもあるし、レッスンを受けてくださった方のなかにはある自分の動作や行動について「頻繁に行っていたことなのに、全く気がついていなかった」ことに気がついて驚いた経験がある方は少なくないだろう。しかし「実感のない日常」の「日常性」とはなんなのか、リアルに感じることってなんなのだろう・・・と、具体的な動作や身体感覚も交えて考えてもらえたなら、嬉しく思う。
著作の中でも「こわい」という感情や感覚について書いている部分があるが、「あたりまえなこと」にメスを入れる(「メスを入れる」などという表現を使うとなにやら痛そうであるが、バイオレンスな意味ではなく、要するに「いつもと違う角度からそれをみてみる」ということである)ことは「こわい」ことでもあるようだ。しかしどうしてこわいのかは、本人にもよくわかっていないことが多い。「どうしてこわいのか」についてきちんと考えてみる時間を自分自身に与えてあげることができたなら、意外に「なーんだ」ということも多く、「考えることができるのだ」という自分にすこし安心感と信頼感がもてることも多いのだが、「こわい」ものが「こわい」うちは、「こわい」から触れないし、考えない。だから「こわいもの」は変質する術と機会を失い、ずっと「こわいもの」のまま巣食い続けるようだ。
先日、自己評価が極端に低いのに目標は非現実的なまでに高いクライアントさんと「こわいと思っていることについて考える」という話になったときに、「それは自分を大切にしてみて、という意味に聞こえる」というコメントが返ってきて、ちょっと新鮮に感じたことがあった。文字面だけで考えるとそれらは全く関係のない、あるいはかけ離れた言葉のように思えるが、「こわいものを温存し、内封した日常を生きる」ということは「自分は耐える(絶える)しかない」ということで、確かにそんなのは「自分を大切にする(生きる)」感じではないだろうし、そんな気分にもならないだろう。考えてみたこともないことを改めて考えてみるのは、ちょっと勇気のいることだが、でもそのことから見えてくることは多い。いつもではなくても、時に落ち着いて自分自身のパターンについて考えてみることは大切だと思う。