えこひいき日記

2003年10月8日のえこひいき日記

2003.10.08

楽美術館を訪ねた。京都に住まう幸福の一つは、私設の上質な美術館が街中にかなりの数存在しているところだろう。私設の美術館のよさは、一つのポリシーに基づく「広くはなく、深い」所蔵物たち。それは膨大かつ多彩なコレクションという国立系の美術館や博物館とは対極にあるものかもしれない。まさに「小宇宙」というべき佇まいである。

バイオリズム的なものもあって、私の「疲労」はピークに達していた(例によって、そのままやろうと思えばやれるのだが、質的なものをそろそろ野放しでは安心して維持できなくなる状況)。疲れの種類が単純に肉体的なものだけではないとき、私は美術館に足を向けることが多い。行けばそうなるというほど自動的なものではないが、私にとってそこに赴くことは、なにか、「考える」ということに対してニュートラルになれる気がする。「思い惑う」とか「迷う」とか「悩む」ではなく、ものを考えるということについて、それがどういうことだったのかを思い出せるような気がするのだ。
日々眼の前の仕事や雑事に追われていると、そのように物事をして自分が何所に行きたいのかがわからなくなってきたりする。仕事や雑事は楽しいことばかりではない。でもそれをすることも大事であることはわかっているし、楽しいことだっていっぱいあるし、「楽しくない」ということが自分が疲れる唯一の要因だとは思っていない。むしろ、嬉しいことも嫌なことも、手早く済ませられてしまうその「手馴れた自分の手つき」が自分で自分を疲れさせているような気がすることがある。自分の仕事の内容にもなっていることなのだが、「対処」のために自動化しちゃった動作って、疲れるんだよな。ある次元まで来ると。それは良し悪しの問題ではないのだ。「手馴れた仕事ぶり」って、それはそれで一つの「スキル」だし「技能」だし、それがある水準で安定化することは悪いことではない。しかしその状態に慣れすぎると、本当に「自分がそれをやっている」のとは違う状況に陥っていたりする。それは微妙な違いかもしれないが、厳然たる違いである。多分、「くせ」とか「習慣」とか「意識しなくてもできてしまうこと」が定着する過程では、そのような「意識」から「無意識という名の意識」への移行が繰り返され、移行していることに気がつかないから「癖」になりえるのだろう。「癖」や「習慣」になれば、その内容を繰り返すことには労作感覚や負担感はなくなるだろう。しかし同時に発展性もなくなる。それをさらに面白くすることとか、そこから先へ行く道は、手馴れた手段と引き換えに見失いやすくなるように思う。
だから私は「移行」に対して無関心でいたいと思わないのだ。繰り返される移行を止めたいわけでも、移行を意図して促進したいわけでもない。ただときどき自分が何所にいるのか知っておきたいと思うだけのことである。

楽焼の茶碗ばかり集めた美術館というのは、なかなかすごいものを感じる。先日、京都を訪ねてきた友人とここに行ってきたといっていたクライアントさんは「大笑いしてしまった」と言っていたが、笑いが出るのもうなずける。だって楽焼の茶道具しかないんだもん。なのに、その世界は狭くはないのである。「お茶」についてこれほどまでに考えることができるのだ・・・ということに感情が滾る。
豊臣秀吉は楽焼の黒茶碗を好まなかったという逸話は有名である。『日本やきもの史入門』(矢部良明・著 新潮社・とんぼの本)によると、ある茶会の後に利休が茶人の眼の前でわざわざ茶碗を白い瀬戸に換えさせて「太閤様は黒茶碗がお嫌いにて候」と言ったそうである。さらにこの本の文章はこのように続く。「・・・太閤様が白茶碗を好んだかどうかはともかく、白い茶碗というのは食器として機能的だし清潔感があって、誰にでも美しさがわかりやすい。それに対して、晦渋な味わいの黒茶碗には表面の美しさではなくて、深い精神的なものが宿っている。利休は、やきものが精神を表現するための素材でもあるのだ、とはっきり認識していたのでしょう。」

楽美術館に行って茶碗を眺めているとそのことがよくわかる気がする。私なりに言うならば、それはまるで「なぞなぞ」なんである。
私が想像したのはどうやってお茶を点て、どう飲もうか、ということであった。茶碗は私が普段使っているものよりも大ぶりで、重そうである。高さもあって、深い。かなり手首を立てて茶せんを持たなくてはいけないのではないだろうか。少なくとも、私の体格ではそうならざるを得ないだろう。ふちも個性的な形をしている。こちらに向けて展示されているのがいわゆる「おもて」なのだろうから、お茶を頂くときは真正面をはずして口をつける。どこに口をつけ、茶碗のどこに手を触れ、どういう手つきで茶碗を支えればよいのか、しばし真剣に考えたりした。
こんなふうに、一つの道具に対して真剣に向かい合えるのは、快感であった。快感であることが嬉しかった。一つの茶碗の用いようを考えることを通して、いつも以上に己に関心せざるをえない。茶道とは、そういう「しかけ」でもあるのかもしれない。もてなされる側だけでなく、茶を出す亭主にしても、この茶碗をどのような人に出すのかということを考えて出さざるを得ない道具だと思った。この相手の、この一瞬のための道具。「なぞなぞ」の道具。それを「解かねばならない謎」のように感じたら地獄だろうが、「なぞなぞを自ら作ったり、せがんだりする陽気な小僧」のような気分で道具に、あるいは道具を挟んで向こうにいるその人に、向かい合えたら、これは幸せのきわみかもしれないと思ったのだ。
でもそうやって具体的な所作を想像しながら、思考はまったく別のところで遊んでいたりもするのである。目の前のお茶碗やお茶と全く関係のない、いろんなことが風景のように次々と浮かぶ。気がつくと一つの茶碗の前でゆうに10分ほどは経過している。

「実用性」「機能性」には高い価値観が置かれている。ふつうに、社会的に生きていると、それが「水戸黄門の印籠」のように「有無を言わせぬ無敵に価値観」としてまかり通るほど重用されていることにも気がつかずにいられるかもしれない。私の疑問はそこにある。「わけがわからず使っている」(わけがわからないのに使える)というところに、である。機能性や実用の美に文句があるのではない。だが、機能的だからよい、実用性があるだから文句を言うな、というのでは、ただの「いいわけ」にしかなっていないような気がするのだ。
先ほどの秀吉の「白が好き」ではないが、私が普段使う茶碗も、どちらかといえば汎用性、つまり「使いまわし」を考えて購入したものだ。それぞれ大きさや色、形や重さが違うのだが、いずれもふちはどこからでも飲みやすい感じで均されているし、カジュアルなつくりで、抹茶を頂くときだけでなく、例えばカフェオレボールとして使おうと思えばそれほど違和感なく使えるだろうし、アイスクリームや葛きりを入れても、あるいはサラダを盛ってもそれなりにさまになるかもしれない。私が普段使う茶碗は4つあり、それを購入したときには気がついていなかったが、そのいずれを購入したときにもどこかで「それ(茶)以外」の利便性や機能性、「使いまわし」の可能性を脳裏で考えていたような気がする。自分で言っておいてなんだが、それを悪いとは思わないのだ。ただ、この汎用性や「使いまわし」のリーズナブルさから、ある意味で最も遠いところにある器を見ながら、そのような利便性に対する自動的な態度の固定は、本当にものごとに向かい合う態度や真摯さ、真剣さを日常性から排除しているのではないかという思いがしたのである。

この用途にしかない、これしかない、というものが在っても、よいではないか。器用に立ち回り、周りから愛され・・・いや、単にその器用さゆえに重宝がられたり、敵にならずに済んだりして、そこに自分の居場所をかろうじて見出すことで胸をなでおろすよりも、自分が生きていてよかったと思う瞬間を重ねながら生きてみよう・・・・などという過激なことを、茶碗を見ながら唐突に思ってしまった。自分の道を行くことは、危ないことだ。赤信号だろうが、青信号だろうが、団体にまぎれることで渡れてしまう人生の方が、安全かもしれない。責任転嫁だって、好きなだけできる。しかしその危うきほうにしか自分の道がないとしたら、自分はそこに行くしかない。

印象に残った茶碗の銘にこんなのがあった。「形ハ鬼ナレドモ、心ハ人ナル風体」
観ていて、なんだか泣きそうになった。

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