えこひいき日記

2003年10月13日のえこひいき日記

2003.10.13

自分の状態の変化を「こころ」で感じるか、「からだ」で感じるかは、人によって違う。特にネガティヴな感覚ほどその違いは顕著であるようだ。以前、あるところで開催したワークショップでも、何かの話題から「変化に対する知覚」の話になったときに、ある参加者は「疲労」や「痛み」をすべて身体的なものとして捉え、身体的に対処するのだが(例えば「しんどさは、肉体疲労に原因があると考える」、「だから薬を飲めば治る」とか、「寝れば治る」「ストレッチでも行う」など)、ある参加者は精神的に反応する(「しんどさは、気持ちの落ち込みなどによって起こると感じる」「(解消手段として)悩みを人に聞いてもらう」あるいは「誰にも会わず、静かにする」「気分転換を行う」など)と答えていた。どちらの場合も間違いではない。だが、こういうことはあまり正面切って話題にすることもないし、それぞれの中では常識化していたこと(それ以外の感じ方などないと思っている)だったので、「へー、からだのことと感じるのか」「そういう感情でとらえるのか」というのは、驚きであると同時に貴重で新鮮な発見であったらしい。往々として起こりうる悲劇は「同じものを別の角度からとらえている」に過ぎないことに気がつかないことで、その無自覚ゆえにお互いを無神経であるかのように誤解したり、相手のリアリティを否定することにいそしみがちだが、その悲しい誤解の存在に気がついてもらえたらよいかな、と思ったりした記憶がある。

私は、「からだ」と「こころ」の間をうろうろするタイプである。例えば、男性には全く想像がつかないことかもしれないが、女性は生理周期に応じて月経前症候群と呼ばれる体調や情緒の変化を経験することがある。全くそのような症状に見舞われない(あるいは自覚にのぼらない)女性もいるのだが、私は生理周期の1~2週間前から体調や情緒の変化を経験するタイプである。「体調」として感じる変化は、軽いからだのだるさや筋肉痛めいた症状が主体で、情緒面ではやたら掃除好きになるとか、やや悲観的になりやすくなるなどがある。幸い、最近ではそれらはいずれもごく軽い症状であり、かつ自分自身に自覚があるので、それなりにちょっと対処・対応を心がければ特に日常生活に支障はない。生理中にも体調と情緒の変化はあるが、通常、身体的なもののみが幅を利かせることが常だ。レギュラー化しているのは腹痛である。これもそのときの体調やストレスによって多少の変化はあるが、ほぼ日常生活に著しい困難を覚えずに済む程度で安定している。
ところが今回は、珍しく全面的にどっと精神面に来てしまった。これが月経前症候群および生理中の情緒変化だとわかってはいても、一瞬、自分が生きているだけで他人の迷惑のような気が本気でしてしまうし、横断歩道で信号待ちをしていたり、ホームで電車を待っているときに飛び込んでしまいたくなる衝動と軽く戦ったりする。こんな風に書くと大げさだが、衝動はそれ自体が大きなものではなく、例えて言うなら、部屋を大きな虫が占拠しているというよりも、部屋の中に一匹だけちっちゃな虫が飛んでいるような感じなのだが、割合はどうであれ、目に入ってしまうと、かまけてしまう。一匹の虫に気を取られてベランダから落っこちることだってありうる。今のところ、そうした悲観的な衝動の誘惑に乗らずにいるのだが、乗らずにいる理由はそこで衝動に身を任せたとて大して物事がよくなるわけではなく、あまり変わらないというか、依然として迷惑というか、要するにつまらない、やはり衝動以外の何者でもないな、と思うからである。それはこれまでに何度もそのような衝動に見舞われた歴史のなせる業でもあろう。余談だが、「これ」が「月経前症候群」という認識がなくこのような情緒的変化を体験していたクライアントさんは、そのたびに辛いのだが、そのたびに忘れるので、毎度毎度たいへん辛い思いをされていた。本人の中では1回1回、全く個別の「辛さ」として認識されていたのである。パターンが理解できると自分なりの付き合い方が見えてくるものである。
ともあれ、そうして自分の中の悲観と鬱的な症状と、それに反してまったく腹痛が起こらないことを、どこかで興味深く見つめる日々なのである。

久々の「悲観」に手を焼きながら「しかしそういうときには身体的な痛みはほとんどないのだ」という話をパートナーにしてみたら、「タイムリーに、こんな記事があったよ」と教えてくれたのが、最近カリフォルニア大学などの研究グループが『サイエンス』誌に発表した研究であった。その新聞記事はこちらで読むことができるので興味のある方はみてみていただきたい。
http://www.asahi.com/science/update/1012/002.html
「仲間はずれの痛みと体の痛み、脳では同じ反応 米で研究」と見出しにあるこの研究の本文は、2003年10月10日付けの『Science Vol.302』に掲載されている。

経験的にはなんら違和感のない(つまり「えー、そんなこと嘘やろ!?」とは思わない)研究結果だが、非常に興味深い。特に習慣化した困難感や痛みといった自覚がきっかけとなってやってくるクライアントを見ていると、その困難感の認知の仕方そのものが習慣化していて、情報が著しく偏ったり欠落しているケースに出くわすことも珍しくない。最初に書いたワークショップ参加者の例で言うと、ある人にとっては身体反応でしか解釈されていない現象も、実はその人の思考に大いに関わっていることが多いし、本人が心理的、気分的なものとしてしか認識していないことでも身体的な緊張や「使い方」のパターンに反映されていたりすることは少なくないし、気がつかない「身体的な」癖によってその「痛み」が継続されていることも少なくない。ストレスが量的に変化しているのではなく、どちらかだけで感じられているとすれば、「痛み」の認知状況そのものに関することとして関心を持った方がわかりやすいかもしれない。それらの相関性に着目していくのが私の仕事なのだが、やはり面白いな、と思ってしまうのである。

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