えこひいき日記
2003年10月29日のえこひいき日記
2003.10.29
昨夜は、あるパーティーに行った。実は恐ろしいことに当日までそのパーティーのことをすっかり失念していたのだが、劇場の方に連絡を頂いて助かった。パーティーというのは、近所の劇場でロングランを行っている公演出演者と出資者の交流会なのである。
新聞でも話題になったので、どこかでその記事を見た方もおられるかもしれないが、ロングラン公演の出資金を証券会社を入れて商品化したファンドがあり、私も参加している。この前身となったファンドレイジングにも私は参加しているし、劇場プロデューサーは私の友人なのだが、なにも前例と情だけでお金を出しているわけではない。この企画、わくわくするのである。
私がこの企画にわくわくしちゃうのは、やりそうで誰もやらなかったスタイルでこの金融商品を企画したプロデューサー氏の手腕に悔しいくらいわくわくしちゃうことが一つ。それから、かねがねアーティストと関わることが多い中で、何かの形で制作や創作の力になりたいと思ったことが「公平な形で」実現できるスタイルとして目の前に現れたことの、感謝のような思いである。
いわゆる「たにまち」的に特定のアーティストに肩入れする方法はこれまでにも存在したし、例えばいっぱいチケットを買ってあげるとか、差し入れいっぱいするとか、そういう応援の仕方はあるにはあったが、でもそれしかなかったというのが現実だった。それも応援の形ではあるが、そのままではいかにも「広がり」がない。こういう例のあげ方もどうかとは思うが、例えば、劇場に行ってバレエ公演だったら観客はバレエを習っている人で占拠され、独特の「うちわ」の雰囲気に満ちていて「それ以外の人種」はなんだか肩身が狭い、ということって、ないだろうか。「熱狂的ファン」がアーティストや劇場を支え盛り上げる大切な人たちである一方で、そうしたファンだけが劇場やアーティストを「占有」する形でしか支えられなくなることは、結局双方の「窒息」を招く事態にならないかと思うのだ。それは結局「死」に等しい。ちょうど自力での新陳代謝が落ちた生体に点滴を打ったり、チューブをつないだりして生命を長らえるように、人員や資金の投入がされることは少なくないが、「創造」ではなく「維持」によりたくさんのエネルギーを注がねばならない状況というのは、健康的とは呼べないものがある。しかしその事態にどのようにして風穴をあければよいのか・・・それに対する一つの試みが今回のファンドであった。
パーティーに参加させてもらって、よかった!と思えたことは主に2つ。出資者の多くがが単に「金融投資」という目的意識だけでなく「公演の制作に参加できる喜び」を持って参加されていることを知れたことである。金融商品としての興味を持てるものであることも、私は大事だと思っている。ファン心理とか「たにまち」とはちょっと違った、「この作品ならいける」「このアーティストをもっと多くの人に観てもらいたい」という価値判断がファンドの動きに反映されていることは、多分アーティストにとっても貴重なはずである。でも同時に、創造に対して意欲的な人たちが投資家であるということも、知れて嬉しかったことの一つだった。
もう一つは、出演者がすっごいかわいい人たちであったことである。かなり、ど派手なパフォーマンス・スタイルで知られるグループなのだが、舞台を降りたら「けっこうまとも」であったので、ほっとした。(だって、舞台以外の顔って、知らなかったんだもん)私、反動とか勢いだけで物を作る人たちって、信用していないのである。まじめに普通に普通を生きていて、舞台でばかになれる、というのは信用できる。思わず午前2時まで話してしまったが(メンバーはその後も飲んでいたようだったが)、睡眠時間を削っても元気になれるかわいい人たちだったので、ほんとに嬉しかったのであった。