えこひいき日記

2003年10月28日のえこひいき日記

2003.10.28

突然記憶がよみがえった。先日、楽美術館で見た『姿は鬼なれども心は人なる風体』という一文を、私は以前にどこかで読んでいる、という記憶である。でもどこでだったかしら・・・と思っていたら、突然その一文が出てきた。白州正子氏の『両性具有の美』の中の、「児姿は幽玄の本風也」という文章の中でだった。そうだ、私はここでずっと以前にこの文章に出会っていたのだ・・・。なんだか不思議な気分である。
「姿は鬼なれど・・・」は『至花道』という、世阿弥の著作に出てくる言葉である。私は『花伝書』の現代語訳は読んだことがあるが、こちらは読んだことがない。『両性具有の美』に引用されている範囲をして知るのみである。それによると、『花伝書』は世阿弥37、38歳くらいの著作で、自分の芸にゆるぎない自信を深めたころのものだが、『至花道』は58歳くらいの頃の著作らしいのだ。改めてここに書かれていることを読み返してみると興味深い。「姿は鬼なれど・・・」はそんな中に登場する一文である。
さて、「姿は鬼なれど・・・」というのは何について書かれた言葉かというと、能の中で演じられる代表的な役柄の演じ方、構えについて書かれた言葉である。「二曲三体」を身につけるというのが基本的な訓練の仕方で、それを大事にせよと書いているのだが、「二曲」とは「舞と歌」のことで、「三体」とは「老、女、軍」という、いわば代表的なキャラクターのことである。「曲」と「舞」をよく身につけそれぞれキャラの「物真似」をすることから「体」を学べ、とある。「体」とはそのキャラクターを演じるための身体の構えのことで、それを通して「舞」が行われる。
「老体」には「関心遠目」という注意書きが着いている。白州氏の文章では「のどかで、静かな気持ちをもって、老体の物真似から自然に舞に移って行く」とある。「女体」には「体心捨力」。能はもともと男性が演じるものなので、男性が女性を演じる場合にことに意図して「全身の力を捨てる」ことがテクニックとして重要になる。ここで勧進なのは、ただの「身体放棄」としての「脱力」ではなく、確実なテクニックとしてそれを可能にするということである。「身体放棄」や「気がつかなかったことにする」のではない「脱力(捨力)」がいかに高度なコントロールを要することか、私なりに認識しているが、世阿弥も「幽玄の根本風とも申すべきか」と記しているようだ。そして「軍体」。これについては詳しい説明が白州氏の文章の中にはないが、武人などの勇壮でアクティヴなキャラを演じる際の「体」らしいが、ここに「砕動風」という言葉と「形鬼心人(きょうきしんにん)」という言葉が現れる。これは平家の公達や狂女を演じる際には「形は鬼であるけれども、心は人間であるから、心身に力を入れずに軽がると舞えば、動きがこまやかにくだける」という注意なのである。こうしたアクティブな役柄は、つい力で迫力を出してしまいがちだが、なぜ「鬼」の姿になったのかを汲み取ってただ奇抜で異様な動作にのみ走らぬようにとのことだろう。

こうして書き並べると、現代の演劇やダンスにも通じるところが随分あって、面白い。さらに面白いのは、「蘭位事(らんいのこと)」という章にはこのようにあるところだ。

この芸風に、上手のきはめはいたりて、蘭たる心位にて、時々異風、左右(さう)なくまなぶべからず。何と心えて似せまなぶやらん

白州氏の言葉をそのまま引用するならば「「蘭」は「乱」に通ずる言葉で、みだりがわしいこと、乱雑なこと、まばら、おとろえる、つきる、等々、さまざまな意味合いがあるが、いずれにしてもろくなことではない。上手な人は、何をやっても間違いがなく、正しいことしかやらないので、見物にとっては珍しくない。そんな時に、してはいけない「非風」をたまにまぜれば新鮮に見え、見物にとっては非風が却って「是風」となる」
さらに

これは上手の風力をもって、非を是に化かす見体也。せれば面白き風体をもなせり。それを初心の人、ただおもしろき手と心得て、似すべき事におもひて、それをまなべば、もとより不足の手なるを、おろかなる下地に交じふれば、炎に薪木をそふるがごとし

「世阿弥がすべての技をマスターした上で、心のままに演じられるようになった自在の境地を示すものであろう」と白州氏は書いているが、まさしくそうであろう。そういうのって、すごくかっこよくて、好きだ。ものの上手になる醍醐味は、正しさに縛られることではなく、自由になることだ。私が「からだの使い方」なんぞというものを教えているのも、ただ「正しい」ことを教えることが目的ではなく、それを自由に変える、そのためである。

ちょうど数日前にも、クライアントとダンス表現に関する会話があった。「技術」と「表現」についてといったらよいだろうか・・・表現芸術においては例外なく、その表現手段である技術を学ぶことだけでもとても大変なのである。時間をかける必要があるし、繰り返す必要もある。しかし所詮それは「手段」に過ぎないことも忘れてはならない。習得した技術を自分の言語、表現に変えるには、また別のセンスを磨くことが不可欠なのである。でも、技術ですら大変なので、時々そのことを忘れてしまう。技術的・セオリー的な「正しさ」の中に逃げ込もうとすらしてしまう。でもそんなふうに、無理やり自分を納得させようとしても何か違う・・・そんなことに気がついてくれたクライアントとのレッスンは、とても楽しい。小さな会話の中にも、ものを「創る」喜びがある。
私自身、すこし踊っていた時期に、例えば楽しい踊りの中にも、悲しい踊りの中にも、技術的には同一のステップが使用されている事に触れて、同じポーズやステップをどのようにすれば異なった表現の「言語」として使えるのか、大いに迷ったことがあった。しかしそれを周囲にダンサーに話してもなかなか理解してもらえなかった。技術的に間違っているわけではないことを話題しにしても、その真意を汲んでくれる人は少なかったのである。「できているじゃないの。何が不満なの?」で「おわり」になってしまう会話の貧しさだった。結局私は「私が踊りたいのは振り付け体操ではない」と啖呵を切って、所属していたバレエ教室を辞めたのだが、それは双方にとって好ましい進路だったと今も思っている。
私はダンスという手段では、表立った表現活動を行わないけれども、私なりの表現を嘘をつかずにやっていきたいなあ・・・と思っていることは、その頃も今も変わりない。

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