えこひいき日記

2003年12月5日のえこひいき日記

2003.12.05

小学校6年生の夏に、私はある義務感に駆られ、太平洋戦争(第二次世界大戦)経験者の手記(全6巻)を読破した。そこにつづられていたのは、「赤紙」で徴収され戦場に送られた兵士の体験談や、空襲、疎開、学徒動員、飢餓、原爆投下といった出来事とそこで人間がどう生きたかという話であった。けして楽しい話ではない。例えば、砲弾が腹部に当たり、はみ出した内臓を慌てて自分の腹に収めながら息絶えていった同僚の話などがそこには出てくる。にわかには信じられないような・・・つまり、どうやって自分がリアリティを持っていいのかわからないような話だが、こうした話が淡々とつづられているだけに胸に迫るものがあった。
しかし当時の私は、この話を「過去の話」として読んでいたと思う。戦争というのは、過去のものだと思っていた。
でも今、現実に起こっていることは、戦争である。イラクへの自衛隊の派遣は、明らかに海外派兵である。しかも、それがどうして「テロとの戦い」とか「テロに屈しない態度」になるのか、不明確なままである。
自分がどんな人間か、ではなく、日本人だというだけで、殺される、というのがどういうことなのか・・・それを想像するとき、私はたまらなく悲しい。例えば自分が自衛官であった場合、相手の国籍がどこかというだけで自分がその他人を殺さなければならないシチュエーションを、私はどう受け止めればいいのだろう・・・と思うとすごく混乱する。30年以上生きていれば、自分がどんな人間か、ではなく、肩書きや、国籍や、性別だけで他者によって自分を規定され、嫌な思いをした経験はいろいろあった。例えば、5歳でハワイに行ったとき、パールハーバーで浴びた白い視線、高校生のとき中国のろ溝橋で受けた中国の人からの無言の抗議、アメリカでベトナム戦争経験者から浴びせられた侮蔑の言葉・・・それらの視線や言葉を浴びたとき、私が「わたし」という個人ではなく、その態度をとった人の中の「なにか」の「代理」であったように思う。私自身が戦争をしたわけではない、私自身があなたの祖先を殺したわけではない、私があなたを苦しめたわけではない。でも、無関係ともいえない・・・そういうことをどう受けとめればいいのだろう。

私の望みは、「そうではない」フィールドで人とかかわりたいということである。代理戦争はごめんだ。「なにか」の代わりにそれに近きものを憎んだり、憎むことを許す心理になだれ込むのが嫌だ。「なにか」の代わりに憎まれるのだって、ごめんだ。

でも、派兵問題のような社会的な事件についてだけではなく、「代理」の抗争は身近にも起こっている。例えば、「ほら、ありがとうっていいなさい」と子供に言わせようとする親は、「こども」に向かい合っているのではなく、誰か別の大人のことを気にしている。子供はただ怒鳴られ、しかも無視されている。そういう子供はこの先どうやって生き残っていったらいいのだろう。子供の時代だけでなく、大人の間でだってある。その子供が大人になってからだって続く。会社や学校や、ご近所や、時には直接には知らぬ物同士の間ですら起こる。拡大解釈かもしれないが、日本が派兵に際してやろうとしているのは、これに近いような気がするのだ。
地味なことかも知れにけれど、「こういうのって、おかしくない?」という感覚が日常から麻痺しちゃうと、やはりやばいような気がする。視線をまっすぐに上げて、本当は何をみたいのか、自分に問える勇気を持ちたいと、祈るような気持ちで思うのだ。

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