えこひいき日記
2003年12月15日のえこひいき日記
2003.12.25
昨日は、J&Mの新作公演が伊丹アイ・ホールであったので観にいった。相変わらずダッシュの日々である。(ぎりぎりまでクライアントをみていて、電車に飛び乗るからこう言うことになるんだが、移動そのものは電車だから「ダッシュ」ってのはやはり変かな)
しかしダッシュで観にいかせていただいた甲斐がありましたわ。約1時間の作品だが、実にあっという間だった。お二人の体力(?)が続くものならば、もっともっと観ていたい、観ていられる、と思う作品だった。
1時間のダンス公演というのは、それ自体はけして珍しいものではないだろう。ソロやデュオという少人数で出ずっぱりの舞台というのも、形式として珍しいわけではない。しかし1時間、心臓の鼓動のように均一なテンションで観客を誘う舞台を作るというのは、容易なことではない。これまでも私なりにたくさんの舞台を観てきたが、けっこう豪華(有名?)なダンサーによるハイ・クオリティの舞台においても、どこかでふと、観ている者が舞台で行われている以外のことを考えてしまうような数分間があるものだ。別に、その数分間の間に舞台で起こっていることがつまらないわけではなく、ちゃんと舞台は観ているし、またその数分間によって舞台全体の評価がどうこうなるものでもないのだが、観客と舞台の上で起こっていることの間のちょっとした「空白(ブレイク)」ってあるような気がする。
ところが気がついてみたら、この舞台では私の中に一度もその「空白」が生じなかったのである。はじめから終わりまで、観ていた。気がついたら終わっていた。簡単に書いちゃうとこういうことになるんだが、これってすごいことだな、と思うのである。例によって、彼らの舞台には派手で装飾的な振りや仕掛けが一切ない。そういうものを見慣れていて、そういうものの中にしか「表現」を見出せない人にとっては、彼らのダンスは非常に「見えにくいinvisible」なダンスに感じられるかもしれない。しかしだからこそ、その手法によってしか浮かび上がらせられない「何か」を・・・普段からそこに存在していてもその存在が「見えにくい」何かを・・・舞台の上に作りあげることが出来るのかもしれない。「作りあげる」といってもマテリアルとして何か物質的なものが舞台の上に積み上げられるのではないのだが、でもそれに等しい確かな「手ごたえ」「手触り」を私は感じたような気がした。
彼らの「invisible」なダンスは、身体運動としての「ダンス」だけではなく、心を砕いて選び取られた「音楽」に翻訳され、「衣装」に翻訳され、「照明」に翻訳されて、舞台の上に「1時間」存在する。終わってしまえば、そこにあるのは黒い幕で囲まれた、四角い劇場の空間だけである。でも1時間後の舞台に存在するそれは、ただ見かけ通りのがらんとした空間ではなく、「満ち足りた空白」なのである。
まじ、大絶賛です。来年2月の新宿パークタワー公演も期待していますよ、J&M。
それから、いつもながら、パンフレットへのお心配り、ありがとうございます。そういう配慮の深さが、いつもながら心にしみてしまうのですよ。
(でもだから誉めているわけではないので、誤解なく)