えこひいき日記

2004年10月22日のえこひいき日記

2004.10.22

人の目を見て話さない人って、結構多いなあ、と思った。個人的には先日、医師が全く患者の方を見ようともせずに診察を進める、というのは体験した。全体で2時間に及んだ病院滞在時間内で、医師と目があったのは記憶にある限り4回だけだった。あとは、最初からカルテの方を見ていた。検査データが上ってくれば、私ではなく、データを見る。彼らの仕事が「データ」を正確に読み取ることによって判断を下すことであると割り切れば(事実私も「検査」をしてもらいにいっている部分は大きいし)、まあそうよね、という感じではあるが、気分が良いものではない。ただ、これはけして珍しいことではない。先日もあるクライアントさんとたまたまこのような話になったのだが、「そうですよぉ、医者なんて、こちらを見ませんよ。お店の店員さんだって、受付の人だって、そういうの、多いですよね」というコメントが返ってきた。確かに。そのクライアントさんは、そのことにどこかほっとしている一方で、不満もあるようだった。深く他者に関わられないことの安心感と、他者がまともに自分を認識しないということに対する寂寥感とが、同時にあるのだろう。
目は、みればよい、というものでもないが(「人の目を見て話しなさい」という教育的指導はあるが、これをカタチだけやっても結構空しい)、それを意図的にやろうとせずしている場合、これは一つの態度であろう。目をあわすことを儀礼として行わずとも、話をしていてその内容が自分の意図と重なるものであったり共感できるものであったりすると、相手は自然にこちらを見てくれるものだ。それは仕事上、たくさん経験している。最初は緊張していたり、警戒していたりするクライアントも、こちらの話や指導が的確であれば、自然にこちらを向いてくれるようになる。そのようにして向きあえる関係が自然に発生すると、当然だがやはりコミュニケーションはスムーズだ。

先日、ちょっと出来心で訪れた神社で作務衣姿の年配の男性に声を掛けられた。私はある別の神社に用事があって赴き、その帰りに「うっかり」その神社に立ち寄ってしまったのだが、そんな寄り道はすべきではなかったと今では思う。その男性はいきなり参拝の作法についてしゃべりはじめたのだ。「頭は2回下げてね。頭のてっぺんが神様の方を向くように。下げすぎは見苦しいからね。女性は参道に入るときに45度くらいの礼をするのがいいね。境内に入るときは左足から、出るときは右からね。神殿の周りを巡るときは、女性は右回りで、男性は左回りなの・・・」とずーっとしゃべっているのだ。表面的に(かつ好意的に)みれば、親切にも物を知らなさそうな人間に参拝の作法を教えているおじさん、である。でも、正直な感想として、それはうっすら異様だった。お賽銭箱の前には私しかいないので私にしゃべっているとは思うのだが、目はこちらを向かない。顔はたまに向くのだが、視線は意図的にそらされている。乱視とかでもなさそうだ。私は思わずその人の顔をじーっとみてしまった。日本語は分かるのだが、何をいっているのかわからない感じがしてしまったのだ。「とにかくね、何でとか聞かないでね、そういうふうにするものなの。そうしてもらわないと気持ちが悪いの。こういうのって礼儀でしょ。社会に出ても役立つでしょ・・・」とずーっとしゃべっている。ずーっとしゃべっているのでこちらもリアクションする暇がないのだが、する気も起こらない。すぐ隣にこの人物は立っているのだが、ホログラフィの像が側にあるようで、とても同じ空間に立っている気がしない。ご親切な方かもしれないけれど、私は放っておいてもらいたいんだよな。なんで教えを乞うてもいないのに、介入してくるんだろ・・・しかし現場ではそういう感情は腹の底にその影がみえるだけで、私には本当に「なにをいっているのかわからない」のだった。「ね、ね、わかる?」とその男性が言ってくるので、私はとっさに「外人のふり」をしてしまった。わざと困った顔で英語で「あなたの言っていることが分からない」と言った。それでも相手は「あ、わからないの。でも、わかる?」といってさらに続けるのである。とりあえず私は彼の一連のパフォーマンスが終了するまでじーっとみていた。恐怖感はなかったが、すごく奇妙な気分であった。とりあえず一連の説明を終えると彼は自転車で去っていった。
この話をパートナーにすると、「一種の神経症かなあ」と言っていた。まあねー。自分のやり方を何が何でも押し通そうとしたり、自分の思ったよう方法どおりに他人を振舞わせたがる人間というのはある程度いるが、それは自分のフィールドに他者を入れる場合である。「神社」はあのおじさんのフィールド、ということなのだろうか。うーむ。私だって、団体でやってくるようなクライアントが勝手に室内のものを乱暴に手に取ったりすとむっとする。相手に気を許すほどに相手に対する態度が無礼になるという「信頼」と「馴れ馴れしさ」を履き違えた人間は、残念ながらある確率でいるもなのだ。被害がない限り、私の態度は相手をこころの中で軽蔑するだけに留まる。いきなり自分のやり方に従わせようとは思わない。でもこのおじさんはなんだったのか。単に「親切」な人で、ただ態度(こちらを見ずにしゃべるとか、しゃべり方が矢継ぎ早であることとか)が変な人と考えるべきなのか。でもこれって「親切」か?謎である。

私だって、目に入れるものと目に入れないものはある。仕事上は見たくないものでもみなくてはならないし、人間的にひとかけらも共感できない人物に対しても誠実に話を聞くように勤める。しかしプライベートでは、正直にいって、会いたい人にしか会いたくない。そういう意味では、見えているけれども意図的にみていない人はたくさんいる。
でも、初めて会う人では、自分とどういう関係になるのか分からない人だっている。そういう「わからない」「知らない」ものや人に対してどう振舞うかは、結構大切な問題だと思う。私は時たまギャラリーやアクセサリーショップにふらっと入って、たまたまそこにいる店員さんやデザイナーと話し込むことがある。始めてあった人だが、営業的な態度でというのではなく、誠実にこちらの目を見て話してくれる人と出会うとほっとする。短時間でもすごく面白い話に発展したりして「よかった」と思える。なんでもないことだけど、そういうのって大事だと思うのだ。
未知であるものに対しておびえることしか出来ない人間には発展性がない。しかし過剰にチャレンジングになりすぎても、やはり結末は空しい。こういうバランスって、永遠に課題だと思っちまいました。

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