えこひいき日記
幸福論
2004.01.07
今日はゲリラ的に東京に向かった。六本木にオープンした森美術館での『ハピネス展』を観るためである。
品川駅にも止まるようになった新幹線「のぞみ」で東京に向かったのだが、地下鉄の都合上、六本木へは東京駅が便利だ。東京駅のステーションギャラリーでは『山口薫展』をやっていて、そちらも観たかったのだが、一日に2つも展覧会を観る気力・体力はなく、森美術館を観たら即行で京都に戻ってきた。
今回の『ハピネス展』には非常に期待をしていたし、内容はその期待を裏切らない素晴らしいものだった。が、気分はちょっと複雑だった。それはここがけしてアルカディアではないことを思い知るものでもあったからだ。六本木ヒルズという東京の新名所の中にあって、さらに目玉的な存在でもある森美術館は、ビルの高層階にある。東京を一望できる展望台を供えた、浮世離れした場所であるようでいて、そこが属しているのもまた紛れもない「現実」の世界なのだと感じさせられる。例えば入館する際にもボディチェック。ちょうど空港にあるような金属探知機のゲートをくぐり、必要があれば荷物を開けて見せたりするだけなんだが、『ハピネス』の前で受けるこのゲートチェックには私が今テロと戦争の時間を生きていることを実感せざるをえないところがある。また個人的に、ちょっと空間がせせこましいような気がしてしまった。それはひょっとしたら、ちょっと「がんばっている」六本木ヒルズという街の構造によるものかもしれないし、出展数も多く複雑な展示空間の中で来場者をスムーズに誘導すべく館内のそこここに立って案内を続ける係員の数によるものなのかもしれないが、何となく東京オペラシティ・ギャラリー(こちらも比較的高層階にある美術館だが)よりも「せまい」印象を受けてしまった。しかし展示は素晴らしい。一見の価値ありである。
展示作品の中に『下級兵士YYの夏』という映像作品があった。ヤン・フードン(楊福東)によるこの展覧会のための新作である。多分、作者本人だと思うのだが、一人の若い女性が夏の植物園や、水族館や、動物園や、地下鉄を歩く姿が3枚のスクリーンに同時に違うカットで映し出され、時折ナレーションが入る。ナレーションの中にこういう一節が出てきた。「夏の終わりまで夏は続く。動物園を歩いていて思い出すのは、小さな頃両親にここにつれてきてもらったときのことだ。そして私は気がついた。幸福とは、これから起こる未来にあるのではなく、既に起こってしまった過去のなかに感じるのだと」
日本語では『下級兵士』と訳されているが英語での表記は『minor soldier』である。意訳であるが、私はそれを「マイナーな戦いを戦う者」というふうに解釈してしまった。つまり、職業的な軍人として戦場で戦う「上級兵士(?)」ではなく、「戦場」と呼ぶにはマイナーな、この「日常」というフィールドで戦う、一人の日常者の夏の出来事。映像の中の女性はごく普通のカジュアルな服装をして、公園や、水族館を歩く。映像は動画でもあるが、時折写真のように止まる。その静止画像も、いわゆる記念写真のようなカットではなくて、なんでもない瞬間にシャッターを切ったようなショットである。女性は表情を作らない。カメラに向かって笑ったりせず、いつも目を見開いて、周りを見ている。
記憶に残る記憶ってそういうものかもしれない。どこかに行っても、そのときのことで思い出せるのは、きちんとポーズをとって撮った記念写真ではなく、ふと振り向いたときに見えた光景のストップモーションや、どうという記念碑でもない街角の風景や、カメラに向かって作ったのではない誰かの笑顔だったりする。言語的には彼女は簡潔に「動物園に連れて行ってもらったこと」が「幸福」だといっているように聞こえるが、「動物園に行った」というイベントが「幸福」だと言っている訳ではない。ただその出来事が起こすことが幸福なのではなく、その出来事を受けとることが「記憶」であり、受け止められたことが「幸福」なのだ。そういう、イベントではない、保障とか、地位とかでもない、「なんでもない」とう以外に名付けることがにわかにはし難い出来事たちの記憶が、見えない不安な明日を生きていってみようと思えるパワーの源流なのかもしれない。
幸福というやつが、過去の体験の認識に根ざすものであり、イベントではなく、「なんでもないこと」の中に宿るとすれば、幸福とはいったい何なのか、ますますわからなくなる。何が幸福なのかなんて、それが起こる前から決められない。
それを観ながら私の脳裏にあったのは、一人のクライアントのことだ。彼女はいわゆる摂食障害であり、一時期体重は25キロまで減少して入院した。入院中やその前後の顛末もなかなか大変であったが、そのことはまあ置くとする。現在は退院し日常生活に戻りつつあるが、彼女の「食」との戦いは今も続いている。退院がゴールではなく、本番はこれからなのだ。彼女にとって「幸福」とはなんなのだろう(そんなこと、本人にもわからないかもしれないけれども)・・・そんなことを考えながら東京まで来てしまった。
この『ハピネス展』の中には『ハピネス・イン・ミッテ』と題された映像作品も出展されていた。アデル・アブデセメッドという人の作品だが、猫たちがミルクを飲んでいるところを延延と映したものである。会場の別々の場所に数台デッキが用意されていて、画面の中では一匹ずついろんな猫たちがミルクを飲んでいる。ある猫はたくさんミルクをこぼしながらもわき目も振らず飲んでいるし、別の猫は時々カメラをチラッと見ながら飲んでいたりするし、また別の猫は明らかに異変を感じるのか、にゃーにゃー泣きながらも、ミルクを飲むことを止めない。会場を訪れた人は一様に「なんで猫が?」と驚いたり「あら、猫ちゃん」などとつぶやいたり、何らかのリアクションを示しながら画面を眺め、あるいは通り過ぎる。そして誰しもちょっと笑顔になったりする。
本来、幸福って、こういう感じでいいんじゃないのかな、と思ったりする。「こういう感じ」って「どういう感じ」なのか、正確に言語化するのは難しいが、食べることに喜びを感じたり、「おいしいな」と思ったり、その姿やその欲望を人目にさらすことを、そんなに恥ずかしがったり卑しく思わなくてもいいんじゃないか、という感じである。相手が猫じゃなくても(猫でもだが)、差し出したごはんを「おいしいね」と笑顔で食べてくれたら、やはり嬉しいもの。「おいしい」ってことを共有できるのは、やはりうれしいもの。
でも、そうもいかなくなるときがあることは私にもわかる。「食べる」ことが生きていくことに不可欠なだけに、それが「戦場」になってしまったときはいかに苦しいことか。彼女にとってどうしてこの日常的な行為が「マイナー」な戦場ではなく「メジャーな」戦場になってしまったのか、私にはわからない。わからないが、一緒に考えていくしかないんだろう。生きている限り、このなんだかわからない幸福とうやつを求めることが出来るが、同時に幸福から逃げることも出来ない。そのことを「あきらめて」行く作業を手伝うことが、彼女に対して私が唯一できることだろう。彼女が自分の幸福から逃げない限りは、だが。