えこひいき日記
コドモの体力
2004.01.25
新聞で「小学生の体力が低下している。ほとんどの子供が逆上がりが出来ない」という主旨の記事を見た。私の記憶が定かであれば「子供の体力低下」はこれが始めて言われたことではなく、多分ここ10年くらいずっと言われていることだと思う。これはあんまり喜ぶべき事態ではないなとは思うが、
私にとってそれより疑問なのは、何をもって「体力」といっているのか、何によってその有無を判断しているかである。また「体力」と「身体能力」の関係をどうとらえているか、ということにも疑問がある。いわゆる「体力測定」で低い数値をマークした人が「身体能力が低い」人で「運動(スポーツや身体表現)ができない」のかというと一概には言えないし、「体力測定」で高い数値を記録した人が「身体能力が優れている」「運動ができる」人かというと、やはりそうでもないような気がするのだ。いわゆる「体力」の測定法方が、日常的な動作よりも強度に特殊に純粋化されたある「障害」を与えてそれをクリアできるかどうか(重いものを持ち上げるとか、握るとか、)で測られているとするならば、それは「抵抗力の測定」「(継続的ではなく)瞬間的な力の入れられ具合」とはいえても、それをして「体力(のすべて)」と評価してしまうのはどうだろうか・・・と思ってしまうのだが、どんなもんなのだろうか。
私が普段レッスンでお会いする幼年者の「からだ」をみての感想だが、彼らがけして体力や身体能力が低下しているだとか、脆弱だとは思わない。むしろピンポイント的に集中して身体を使ったり、その部位の持てる能力を限界近くまで引き出すことにかけては、現在の大人や、30~40年位前の子供よりは優れているのではないだろうか。例えば、レッスンに来た小学生にしても、リトルリーグに所属している男児の上腕のバッティング能力や、体操やダンスを習っている女児の脚力や(一見したときにそれと感じられるところの)柔軟性、ファミコンにはまっている男児の指の能力は、非常に優れていると思う。子供の世界で「遊び」とされるものが、ごく早い時代からファミコンや競技スポーツなどのように「意識的に、ピンポイント的に」身体能力を使用する種類のものに移行しているからであろうが、幼年期からこれら「ピンポイント使いの英才教育」を受けた彼らの集中力と習得の速さは大人を上回るものがある。
しかしそれは時に「バランスを欠いた発達」と言わざるを得ない側面を伴う。バッティング能力にすぐれたリトルリーガーは脊柱の連動が体得されておらず、「純粋に」腕力のみでバッティングをこなしている形跡があり、上腕にはすでにその体格にはアンバランスなほどの無駄な筋肉がつきすぎていた。上腕の過剰な発達に比べて平衡感覚や柔軟性に問題が見られ、最初は全くバランスボールに座れなかった(無駄な上腕の筋力のリリースがわかってくると、座れるようになってきたが)。小さな体操選手やダンサーは、無用に背中を緊張させて反ってしまう(本人は「背筋をしゃんと伸ばしている」つもりだったらしいが)ために、背中を使うと脚が上らず、脚が上ると呼吸を止めて無理に踏ん張る以外の方法ではキープできない状況だった(関節の使い方を理解することで、この問題は随分改善されたが)。「からだの使い方」という面では驚くほど効率は悪い。しかし子供ならではの「純粋な」集中力と熱心さが、大人の目からその危険を覆い隠してしまっている。ファミコン少年は指の動きと画面に集中するあまりに猫背が進行し、潜在的に存在した側湾症が悪化してしまった(これも「手」と「目」と「その他のからだ」をどう使うかを指導することで、かなりよくなったが)。
あるクライアントはそれを「(からだの)協調性がない」と表現する。「バランス」や「連動」あるいは「動作をつなぐ動き」と言い換えられる部分もあると思う。これは特定部位への集中あるいは集中的なトレーニングだけでは培えない、統合的な身体感覚の問題だ。
子供とはいえ、彼らだって責任はあろう。しかしそれよりも罪深いのは「子供らしい純粋な熱心さ」に隠されたこの危険を指摘できない大人の見識のほうであろう。それも悪気ではなく、知らないからなので、なお切ない。大人は子供を叱咤激励するだけではなく、自分自身を磨く努力を怠ってはならないと思うのだ。「連鎖」とはよく言ったもので、「無理と根性」しか上達の方法を思いつけない指導者に動作を習った子供は、まずそういう動き方と努力の仕方しか発想できないのだから。
「逆上がりが出来ない」という子供の話は新聞記事にもあったが、それは逆上がりの仕方を適切に指導できない大人の問題でもあったりする。現に、そういう親御さんを私は知っている。その親御さんは「息子が逆上がりが出来ない」という事態をただ「恥」に思い、本当の意味で「逆上がりが出来るようになるように」ではなく、「逆上がりが出来ないという事態が消滅するように」、息子さんに「もっとがんばれよ」「力を入れろ」と強要し、できないと彼を叱り、嘆き続けていた。そのように扱われる「からだ」が息子本人にとって快であるはずはない。「からだ」がそれをもつ本人にとって「恥」やそれに類したものを顕在化する媒体でしかないとしたら、そんなものの能力を高めようという努力に意味など感じられなくなるのは当然だし、運動など自らしなくなるのも無理はないことではないか。
ただ、子供はいつまでも子供ではなく、そのうち大人になる。「大人になる」ことのよいところは「疑問をもてるようになる」ということだと思う。言われるままに従って誉められることに安堵を見出す時代は終わり、疑問や違和感を手がかりに、「自分のやり方」を探るようになる。自分の「コトバ」を持つようになる。いつ「コドモの時代」が終わるかは、年齢ではなくて、いつ「オトナ」になるかによると思うのだ。大人だって遅くはない。「オトナ」になろう。抱いた違和感に何も出来ずにじれたり、すねたり、地団駄を踏んだりするだけではなくて、何か自分にできること、解決方法を発想できること(少なくとも発想しようという、落ち着いた気力を持つこと)が「オトナ」の楽しいことだと思うから。
私もがんばろー。