えこひいき日記

体脂肪計付き体重計

2004.01.28

思えば生活の中には様々な「測り(計り?)」が導入されている。例えば「時計」というのもそうで、待ち合わせをするときとか、クライアントさんの予約時間を決めるの私も日々使っている。人間の感覚にも時間の経過を関知する感覚はあるが、各々個性があるので、それだけを頼りに「この時間にここに来て」とか言われてもかえってややこしい。お互いの「共通の目安」となるようなものがあるほうがコミュニケーションはずっと楽になる。「カレンダー」もそうだ。思えばセンチメートルとか、平米とか、グラムとか、様々な単位を使い分けて、自分と他人を最低限信頼できるように、私たちは生活の中で他者や社会と共通認識を取り結ぶ。

しかしながら、再び個人的なレベルに立ち戻ると、その「計り(測り?)」の存在は知っていて、それなりに意味も理解していても、個人的にはほとんど使用しないものというのもあると思う。私にとっては、体重計と目覚し時計がそれであった。
私は記憶している限り、この15年は自主的に目覚し時計を使ったことがない。私の仕事は就寝時間も起床時間もかなり不規則だが、クライアントさんとの約束はかなり時間がきっぱりしているので、「時計」や「時間」というものに関係のない生活をしているわけではなくむしろ非常にお世話になっているのだが、「目覚まし」に関しては「私の生活にないもの」といっても過言ではない。それでどうして目がさめて、遅れずに仕事が開始できるのか、自分でもよくわからないのだがとにかくそうなのである。
体重というのも、多分10年くらいは自主的な計測をしたことがなかったと思う。だからうちには体重計がなかった。しかし買っちゃったんですねー。体脂肪計付き体重計!最近はほぼ毎日体重計に乗り、ついでに以前に景品(?)で頂いた「握るタイプ」の体脂肪計で誤差をチェックしている。微妙に変動する(でも意外とかわらん?!)数値を面白がっているところである。10数年ぶりに自主的に体重計に乗ってみたが、タイムギャップの割りに意外と「ふつう」な結果、というのが偽らざる第一印象といえようか。長いこと計測していなかったからといって、大幅に体重が増えたわけでも減ったわけでもなかった。今は全くといっていいほどいわゆる「運動」をやっていないのだが・・。以前より1キロから2キロくらい増えたかな。体脂肪も確か10パーセント台だったのが20パーセント台に入っていたので、年相応に(?)変動はあるようだ。そのことに対してショックもなく、「なるほど」という感じであった。
でも十数年前は違ったと思う。体重を計る、というのはもっと辛い、そのくせ「しなくてはならない」と思っていたような作業だったと思う。

15年位前に私はまだ踊りを習っていて、舞台に立つたびに体型や体重の問題に向き合う必要があった。それは先ほど書いたような「他者との共通認識を取り結ぶ」ため・・・例えば、衣装を作るためにサイズを図る必要があったり、パートナーと踊るために体重を調整したり、体調管理のバロメーターの一つとして・・・という、「必要性」のあるものでもあったが、それがいつの間にか「体重の方が自分という人間を量っている」ような状況になっていることもあった。テクニックがうまくいかないのも、振りのタイミングがうまくパートナーと合わないのも、人間関係がうまくいかないのも、まるで全て「体重」のせいであるかのような、奇妙な本末転倒が生じてくるのだ。しかも恐ろしいことに、これが個人的な「狂気」ではなく、その稽古場にいる人間の中でもある意味で「常識化」した「本末転倒」だったりするのだ。みんな多少ならず「体重」やそれに準ずる「みかけ」のことでいらいらしていたし、他人が自分よりやせる、ということに対しても、それを賞賛しつつ嫉妬のようなものを持っていたように思う。本番の舞台が迫るにつれ、その「狂気」がうっすらと稽古場を覆い始める。その「狂気」にかまけることを「努力」や「熱心さ」のように思い違いをし、その横行を既成事実として正当化する奇妙さ。その結果、結局「みかけ」しか目に入っていないことにも気がつかずにいることの浅はかさ。
私は踊りの世界に入ったのがうんと遅かったせいかもしれないが、「常識化した狂気」には比較的冷めたスタンスを持っていたように思う。「体重」のことだけではなく、テクニック的なことに関しても、クラスメイトの多くが「こうするものなの」「こういうものなの」「練習していればできるようになる」「とにかくやれ」の一言のみで、ほとんど疑問も持たないことに対しても、けっこういちいち引っかかった。相手にとって「常識」という名の「盲点」に入っているものに対して質問しても、会話にはならなかった。だから自分で突き詰めた。その世界の「常識」に染まることではなく、自分自身で納得することを選んだから、自分は今こういう仕事をしているのかもしれない。
とはいえ、私とて最初から「常識化した狂気」に無縁だったわけではなく、無傷で通り過ぎたわけでもない。最初の発表会では、プレッシャーで、必死にダイエットして、39キロになってへなへなになったこともあったし、奇妙な練習で身体を痛めたこともある。でもそれらの「失敗」が私に与えてくれた「冷静さ」は、減った体重(体力?)や痛み(傷み)より結果的に価値あることだったかもしれない。そんなこと、脱した後だから言えることかもしれないが。でもだからこそ、思うのだ。本来、みんなそれが好きで、がんばろう、と思っていたところは「本当」なのに、どうして努力の方向がそちらにずれやすくなるのか・・・「こうありたい」という「希望」が、「こうあらねば」という「不安」に摩り替わり、まだそれ(希望として抱いた状態)が実現していない「現在の状態」が事実以上に悪い状態にように思ってしまうことで増幅する「あせり」と、その焦りに煽られて、無差別にいちいちのことに神経をささくれさせる・・・やはりそういうのって「もったいない」と思うのだ。熱心さのあまりとはいえ、やっぱりそんなの「脱線」だもん。

「他者との共通認識を取り結ぶため」の、あるいは「自分自身との共通認識を取り結ぶため」の「目安」が、いつの間にか「他者との違いを計測する」手段に摩り替わってしまい、その「違い」にいちいち苛立つなんて、自分がそこを脱出した今となっては「本末転倒」とばっさり思えるが、そのさなかにあるときは本当に苦しい。でも、自分が気がつかなくては抜け出せない。頼れる他人さんは、方向ぐらい指差してくれることもあるが、抜け出すのは自分自身でなのだ。だから苦しくても、私は「がんばれ」って言いたい。負けるな。目をあけて、よく見てみて。
本来なら自分が「使う」はずの「目安」に測られ、使われている事態は、けして珍しい出来事ではない。「体重」もそうだが「鏡」に測られる人だっているし、「偏差値」とか「学歴」とか「正しさ」とか、「これができなきゃ」とか「あれができなきゃ」とか、とらわれようと思えば世の中罠だらけ。でも、それだって最初から「罠」として生まれついたわけではない。問題(トラブル)になってからその存在に気がつくことが多いものかもしれないが、ほんとはそんなんじゃない。

今は体重計に向かって「このやろー」ではなく、「ごくろーさん」とか「ありがとう」と言える自分に気がついて、そんなことを思った今日この頃だった。

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