えこひいき日記

喪失と喪失感・・・あるいは一人二役

2004.02.02

あるものが存在することと、その存在に対する感覚や認識(その存在を言語的に、視覚的、聴覚的にとらえることができることなど)が過大に遊離しない関係にあるときはそれらが「一つのもの」であるかのように考えがちだが、それは思い過ごしである。それらはぴったりと寄り添う深い関係にありながらも、本来は別のものなのだ。
例えば身体と、身体感覚。この仕事をしているとまさにそれがダイレクトなテーマになるんだが、その人の肉体そのものは存在していても、そこに対する感覚や関心は皆無ということも珍しくない。だから目の前で傷口が開いたり、他者からデータを突きつけられないかぎり、自分の身体を自分では知覚しない人もいるし、逆に、ちょっとした変化が起こっただけでそれを全て「(物理的にも)わるいこと」が生じたように思ってしまい、慌てて行動をして余計症状を悪化させるという人もいる。いずれのパターンにしろ、ただ刺激や負担のみを知覚することにのみならされた身体感覚から繰り出される動作(身体の扱い方)は、物質的にも身体を傷める確率の高いものになりがちで、そうした経験がまた「痛み」でしか身体を知覚しないパターンを維持するのに貢献してしまっていたりする。
ダイレクトに「身体」などと書くと、それこそリアリティが湧かない人もいるかもしれないが、例えば、「食事とその味」の関係とか「見ているものと、見えているもの」「聞こえているものと、耳に入っているもの」の関係というふうに、表現を変えればすこし実感に近づいて考えることができる方もいるかもしれない。食べるという行為を日常的にしてはいても、おいしいとか、まずいとか、感覚が起こらなかったり、「喉に通らない」ことがあること、視覚的には見えているのに「目に入っていない」、‘みどころ’のようなものを他者からガイダンスされなければにわかには自分で何を観ているのかを認識することが出来ない、ということは多少なりとも誰しも経験のあることだと思う。だが、そういう経験もしながらも、食べれば味がするのはあたりまえ、見れば見えるのがあたりまえ、とどこかで思っていることが多いようで、物事が存在することとその感覚の関係についてダイレクトに考えることは少ないのかもしれない。

思えば自分が何者なのか、などと考えるのは、常に他者との関係においてのみかもしれない。「他者」といっても「人間」とは限らず(人間であることが圧倒的に多くはあるが)、「空と私」とか「海と私」とか・・・こんなふうに書くとポエティックというかファンシーに聞こえるかもしれないが、そうではなく、もっと切実にリアルに・・・どうして自分は自分でしかなく、空や、海ではないのだろうか、どうして私は私でしかなく、あなたではないのだろう、あなたはあなたでしかなく、私でないのだろうと、考えるときに登場する認識なのかもしれない。どうして私が私でしかなくあなたでないのか、私にはいまだわからないが、ただあなたが私でなく、私があなたでなくても、話が出来たり、共感できることがあったり、違和感があってもそれを伝えるメディアがあることや、チャンスというかエネルギーというか機会があることの方が、何だか嬉しいことのような気がするのだ。

そんなことを考えてしまったのは、先日たまたま「恋愛」とか「失恋」の話をクライアントさんとしていたからだ。仕事をしていると、計らずしておんなじ話題のクライアントさんが続くということがあるのだが、先日もそうだった(その前の日は「武術家デー」で、太極拳とか空手とか、合気術など、具体的なメソッドは違うももののどれにも共通する技のかけ方の話が続いてしまった)。恋愛中のクライアントさんは「会っているときはよいのだけれども、会っていないときの不安や一種の喪失感がたまらない」と話し、失恋したクライアントさんはその痛手の中にありながらも「でも喪失と、喪失感って、違いますよね」という話をしてくれた。「恋愛」と「失恋」という、かなり違った状況にありながらも、どちらも「喪失感」という言葉が出てきたのは面白いし、同じ言葉で表現されているものながら、それとの関わり方が各々違うのも面白い。「面白い」などと書くと、無責任に面白がっているようで失礼かもしれないが、そういう野次馬的な意味ではなく、面白いと思うのである。
「喪失感」というやつは、物理的な存在やそこにある関係性とは必ずしも関係せず生じるもののようだ。では人は何を「喪失した」と感じるのだろう。
もう10年位前に出版された本だが、『別れの美学』(松本侑子著)という本がある。エッセイのような本で、さまざまな失恋論が書いてある。失恋したクライアントさんと話しながら突然その本の一説を思い出した。そこにはこんなことが書いてある。

二十代の初めに、彼はある女性に恋をし、何年も愛し続けたが、結局気持ちを受け入れてもらえなかった。その傷手から、自分に自信をなくして落ち込んだ彼は、家に閉じこもり、無口になって暗い毎日を送った。そして、この苦しみから解放されるために、彼は「自分が彼女になればいいんだ」と思い、実際に「僕は彼女だ」と言い聞かせ、思い込んだというのである。するとうっとりするほど幸福になれたという。
この話を聞いた時、私は、彼の言う意味が、ぜんぜん理解できなかった。相手になりきってもいいと思えるほど魅力的な異性に会ったことがないせいか、それとも私の愛が足りないせいなのか、とにかく、そうすれな自分が恋人だと思い込めるのか、すべてに見当がつかなかった。
しかし今はわかる。彼は、(中略)、失恋という現実を否定し、幻想としての恋人像と自分とを、一人二役で演じたからだと。

(『別れの美学』「愛の幻想、別れの現実」より)

著者と同じく、私にも全く「そのひとになればよい」という感覚が理解できなかった。いまでも「わかる」とはとてもいえない。現在も自分自身がそう発想しそのような行動をするとは考えにくいからだ。でも、以前よりはちょっとわかった気がした。ああ、こういう感覚なのか、と。私はそれを「鏡の中に映った自分が、本人が鏡の前を去ったあとも、鏡の中に取り残されたような感じ(ビジュアルイメージ)」として理解した。しかも主体性は、鏡の外の現実にではなく、鏡の中・・・幻想というか、「こうなるはず」という思い込み、あるいは記憶・・・の方に移行している。
鏡を見ていると「鏡を観ている自分」よりも「鏡に映っている自分」の方が「ほんもの」のような感じがして、知らないうちに主客が逆転し、自己認識や動作に奇妙なずれが生じてしまうことがあるが、恋愛もまたそのほかの人間関係と同様に、自分を映す鏡のような作用があるのかもしれない。実際にここにレッスンを受けに来る人でも、鏡とか、本とか、パソコンの画面に入り込まんばかりの奇妙な姿勢をとる人がいるが、彼らは「入り込むような感覚」とその後の「身体の痛み」は感じていても、その際自分がとっている実際の動作については認識がない。つまり、主体性がその行動をとっている現在進行形の「からだ」に伴う習慣がないのだ。
あるいは、ダンスでいうと、親子関係や職場の人間関係、クラスメイトといった人間関係が、完全に自分で選び取るというよりもある枠でもって成立する「型のある」関係性であるというならば、それに比べて恋愛は多分に「インプロビゼーション(即興的)」な関係かもしれない。鏡と首っ引きで稽古する練習方法しか経験していない人間にいきなりの「即興」は無理だ。即興って、自分の経験や自己認識やセンスがばれるんだよな。ダンサーでもミュージシャンでも、指示されたらすばらしく踊れたり演奏できたりするのに、「自分で躍れ」といわれるとワンパターンになってしまう人がいる。やたら反動的に動き回ったり、既存のテクニックから離れることにいそしみすぎたり、逆に得意なテクニックだけを状況を読まずに連発したりして、結局「自分の動作」ができないような場合だ。「枠」があることが即ち「制限」であるとは限らず、「枠」の中でしか自由になれない人間もいるし、枠のない「自由」よりも「枠のなさ」にたじろぐ方が先立つ場合もある。でも、「枠」の外に立ってみてこそ、「枠」のよさや役割、あるいは枠がない場所で自分がどのように立って動くかをまともに考えられるようにも思う。
その意味でいうと、恋愛を「セラピー」と言い放つ人もいる。確かに恋愛は既存の人間関係の枠を問い直し、自分を見つめる機会にもなるだろう。他の人間関係で受けた痛みを和らげてくれることもある。しかしただそれだけで終わるなら、それは恋愛であって恋愛ではない。だって恋愛である必要はないじゃん。それを恋愛と呼びたいのは依存心からではないだろうか。一人の人間に相対することだから、同じ相手に対して同時進行的に友情のような感情や、親子に似た感情や、同志のような、兄弟のような感情を抱くことはあるだろう。だから依存心に近寄るのも無理はない。でも恋愛だからこその感情のエッセンスってあるような気がいていて・・・あ、でもどうなんだろ。よくわかんなくなってきたぞ・・・、ただセックスをするだけや、一人の時間を埋める相手としてではなく、本当に相手と恋愛するなんて、すっごく大変だと思うんだもん。
私は、即興ほど膨大なリハーサルを必要とする作業はないと思っているのだが、恋愛も同じかもしれない。そして恋愛のようなわけのわからん、ときにずっしりぐっさりくるキツイ関係が、傷つくリスクがあってもなお人の心に魅力的なのは、それなりの理由があるからかもしれない。恋愛に溺れるのは楽しい。自分をさらすのは面白い。その楽しさも面白さもせつなさも、相手を得て開花する感覚ではあろうが、それは相手の感覚ではなく、やはり自分の感覚なんだよな、と、思ったりするんである。どちらから告白されたとか、そういう次元ではなく、自分が相手を好きになることが、恋愛は楽しい。その感情が本物なら、たとえ恋が実らなくても、自分が相手を好きになったことを否定する必要はないし、恥じたり、怒ったする必要もない(逆にいえば、ふられて相手を逆恨みする人って、自分が相手を好きであったことの主体性にかけていることが多いんだよな)。相手だってちゃんと生きて存在している。いつか別の人間関係になることだってあるかもしれない。もちろん、恋愛関係が成立しなかったことは悲しいけれども・・・でも、その関係が成立しなかっただけで、実は何も失ってなどいない。「喪失と喪失感は違う」と言ったクライアントさんは、「喪失感」はあっても本当は何も「喪失」はしていないことを、ちゃんと知ったのだと思う。

それにしてもある恋愛が終わった後に「そのひとになればよい」的な喪失補填(?!)にはしるのはどうも男性に多いような気がするのだが、どうだろうか。かつて失恋のショックで自殺未遂をした男性を知っているが、彼はいまだに「彼女は自分のものだと思っていたんだ」とこぼすことがある。現在この男性は結婚もしており子供さんもいる。配偶者や子供との関係は特に悪くはない。けれども、ほんの稀にだがまるでついさっきおこった出来事を言うような口調で「彼女は・・」ということがある。そんなふうに時間の経過やあらゆる変化を拒絶して真空パックされたような言葉が突然出現することに時々心底ぞっとする。彼にとってその恋愛とは、何だったのだろう。また別の男性で、やはり失恋がトラウマになっているという人も、失恋した女性のことを「俺のもの」と表現することがある。やはり口調は「当然」という気配に満ちていて、音声的には「オ・レ・ノ・モ・ノ」という言葉なのだが、意味的には「Don’t touch me!」に聞こえてしまう。「あなたが交渉を避けながら相手を所有することを当然と思っている根拠って、なに?」と聞いてみたい欲望に駆られることがあるが、それは現段階では相手に対する私の「攻撃性」も含んだ質問なので、まだ聞かない。
私には正直に言ってこの「自分のもの」という感覚が理解しきれない。どうして「当然」のように相手が「自分のもの」だと思えるのかがわからない。「じぶんのもの」と思えるから「あいてになろう」とも思えるんだろうな、と想像するが、ようわからん。

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