えこひいき日記
“出家願望”と身近な?シューキョー問題
2004.02.27
27日の朝、私は東京にいた。もう既に数日前から、この日判決を迎える裁判についてテレビや新聞でも繰り返し報道も続いていた。オウム真理教教祖こと松本被告の判決である。
いわゆる地下鉄サリン事件のすこし後で、私は日本に帰ってきた。今でこそ、悲しいかな「テロ」という言葉も一般的に奇異に響かないご時世だが、当時欧米では「日本のカルトがテロを起こした」という報道がされたりした。自分にとって「この世の外」の言葉にすら思えたほど実感のわかない「テロ」とか「カルト」という言葉と、自分の生まれ育った場所を意味する「日本」という言葉が一つの文章になって語られているのをものすごい違和感と共に避けようもなく受け止めたのだった。
いまだに私には、特定の誰かではなく、自分(たち)のために他者なら誰でも殺してもいい、という考え方がわからない。特定の誰かならいいのか、というとそういうのでもないのだが、それよりもさらに「自分の行為によって誰が死のうともかまわない」ことになぜYESといえるのかが、私にはわからないのだ。「わからない」というところは9年前と何も変わっていないのだが、「他人を殺してもいい」という考え方から受ける空しさのほうはリアルさを増していて、報道や再現場面を見るたびに涙が出てしまう。しかしその涙も、悲しいとか、そういうわかりやすい感情があるわけではなくて、ただただ空しいのである。空しくて、痛い。
死刑制度の是非を一旦置くとしても、被告には自分がいったい何をしたのか、せめてそれを知るにふさわしい刑をわが身に受け止めて欲しいと思う。これすら空しい願いなのかもしれないが、でもそれが被告に期待できる最後のことだと思っている。亡くなった人は戻ってこないし、遺族の悲しみは裁判の判決とは関係なくこれからも続くのだろう。それに対しても私には何が出来わけでもない。何かできることがあるとすれば、考えることだ。「自分には関係ない、他人に起こった、不幸なこと」と切り離すのではなく、こういうことが起こっている世界に自分が生きていることを、すこし考えてみることだけ。
こうした問題を考える上で、気をつけねばならないのは「イメージの癒着」である。例えば、上記の犯罪はオウム真理教という組織が起こした犯罪であるが、ではオウム真理教(ないしアーレフ)が解散し、新興宗教というものがこの世からなくなれば、この手の犯罪がこの世から姿を消すかといえば、多分そうではない。
昨日、判決に際して、殺害された坂本弁護士の元同僚という弁護士が「判決が出て、坂本の墓にその報告には行くと思う。けれど判決が出たからといって<よかったね>とは言えない。<よかったね>といえるのは、こういう事件が二度と起こらなくなってからだ」とおっしゃっておられた。その気持ちはわかるような気がする。そのことを知人に話すと「でも、二度と起こらない世の中というのは、事実上無理ではないだろうか。オウムの事件は、ある意味で人間の本質をあらわす事件だから」という言葉が返ってきた。確かにそうだろう。でも一歩踏み込んで「その人間の本質、ってのは?」と聞くと「例えば、普通の社会では生きていけない人たちにとって“出家”というのは必要なことだと思う。けれどそういう制度が事実上、現代社会では機能していない。そういうものを受け止める場所がない。いわゆる既存宗教の出家制度は、既に形だけのもので本気の欲求にこたえるものではなくなったりもしている。そうである限り、こういう事件は無くなるということはないと思うんだ。」確かに、事件の当初から、脱会を呼びかける弁護士やカウンセラーがよくテレビに出てきたが、そこにもまたむなしいものがあった。「とにかくオウムから出て帰って来い」というのは暫定的な改善策?ではあるが、それをして「解決」とは言えないからだ。脱会して元の場所に帰ってきたとてそこが会の中よりも生きやすい場所というのではないし(そうであったら、そもそも入会・出家などしないだろう)、何らかの形で彼らが「自分の生きる場所」を見つけなければ、本当には終わらない。けれども「オウム」が「自分の生きる場所」ではなかろうとも思うのだ。それは「逃げ」に過ぎない。知人は「よくあんなもんにひっかかるなあ」と言ったが、人間、追い詰められてぐちゃぐちゃになると、とんでもなく血迷ったりするのだ。冷静に考えればアヤシくイカガワシイだけの言葉も、弱っている心にたまさかインパクトを感じれば、それを「真理」のように思い違ってしまったりする。相手の迫力や、自分の葛藤から逃げることにかまけて、それを言い訳にしてしまう。私は仕事を通してそういう人間をある程度みてきている。
自分の人生を切り開けるのは自分自身でしかない。それはとても苦しいことだし、孤独でもある。だからといって、その苦しさや孤独感を埋めることを他人に求めたり、自分の苦しさや孤独を被害者意識にすり替えても仕方がないと思う。「宗教」という「聖域(タブー)」を逆手にとって、自分の都合がよいように仏教やキリスト教の教義やら聖人や偉人や科学者の言葉を引用して論理武装をし、自分らが被害者で、正しくて、相手が敵で、間違っていて、殺してもよいなんて、考えが甘ちょろい。「勉強不足」もよいところである。
「物事を自分なりにきちんと突きつめて考えたい。そういう場が欲しい」と望むこころ、という意味で、知人は「出家願望」という言葉を使った(少なくとも私はそう解釈した)。
こっちの世界に生きていると、自分の成長の度合いとは別のところで画一的に入学だの卒業だのという時期が予め決められ、常識と自立の意味もわかっていないのにそれをマストに要求される。はみ出さないように、無難に、でも世の役に立つ人間になれ、なんて言われるのが「普通の生き方」だというのなら、人生、生きる前からちょっと絶望しちゃうかもしれない。それって、なにも私が私でなくてもいいってことじゃないか。彼らが「誰でもいいから」というのと同じに、こっちの世界でも「誰でもいい」と言われる。その「誰でもいい誰か」をお前がやれ、といわれる。それを「つらい」とも思えずに生きていくほうが私には辛い。
自分なりにでよいから、全部が全部出なくていいから、自分にとって大事なところを押さえて、ちゃんと納得して生きたい。その「納得」のための探求や追及、研究、あるいは修行や修養といわれる行為を許される場所が欲しい。その行為に対する理解が欲しい・・・そのこころに私も異存はない。けれども、その場や理解が与えられないからといって、「無記名の他者」をみんな敵に見なすような拡大行為はやはり「あほ」である。このことを9年前の事件の回顧としてではなく、今起こっている出来事と照らして考えてみることは、無駄なことではあるまい。多くの場合、その人には「みんな」を敵と見なす前に理解してもらいたい特定の個人、理解してもらう努力をしてみるべき特定の個人が要るはずである。その人と面と向かうのが怖いからといって他の人(たち)を「代理」にしてはならない。その人にわかってもらえないからといって誰かを「身代わり」にてはならない。それはむなしいことなのである。
ところで一気に軽い話になるのだが「宗教」ならぬ「シューキョー」を「ある信念」「聖域にしてタブー」さらに転じて「ある思い込み」というふうに拡大解釈をさせてもらうならば、それは特別な人たちの特別な問題ではなく、意外と身近な問題になるかもしれない。
以前、弟は食事の席で食べられない(食べたくない)食べ物が出たときに、それを「食べない理由」を他人から聞かれると「シューキョー上の理由」と一言言うことで封じていた。それは「説明」ではなく、もちろん本当のことでもなく冗談であり、ただ相手の質問をかわすための言葉であって、真に意味するところは「ほっといてよね」ということであって、「相手を黙らせる」「放って置いてもらう」ために「シューキョー」という方便?はまさにうってつけなのであった。
これはある宗教関係者たちがレッスンを受けに来たときの実話だが、彼らも「宗教」を同様に使っていて、ちょっと(いや、私はかなり)がっかりしちゃったことがあった。肩こりや腰痛、人前でしゃべるときに「あがり」や声の上ずりの改善にとレッスンを受けに来たにもかかわらず、彼らの態度は終始「逃げ腰」だった。「聖職にあるものが、肩こりだなんて、修行が足りない」などと、何かと言うと「修行が足りない」を繰り返すのだった。よっぽど自分を「万能」だと思っておられたらしい。「宗教やご職業と、からだの使い方の習慣の問題は関係ないですよ(つまり聖職者だから肩が凝らない、などという論法はない、という意味なんだが)」と言っても、本人はやたらと恥じ入るのであった。その「恥」の感覚は、誰に対してのなんであったのか、と今でも思う。彼らにとって「聖職にある」ことは、自分だけがこの世に普通に生じるべくして生じる痛みの感覚や故障の発現からの「免罪符」になりうるとでも思っていたのだろうか。もしもそうだとすれば、それは単なる「逃げ」である。そしてレッスンが彼らにとって効果的であればあるほど、彼らは私を煙たがった。まるでレッスンでのことを認知すると、私に「帰依」しなくてはならないとでもいうような、これまでの自分を捨てなくてはならないような、そんな感じなのである。そんなふうにしか他人と関われない彼らを悲しく思う。自分にしか出来ないことを自分が行いつつ、自分には出来ないことが出来る他者と関わることが真に「協力」であり「コラボレーション」であると私は思うのだが、もしも他人も自分も一様に同じことが出来なくてはならない(出来ないことがあってはならない??)のだとすれば、辛すぎて馬鹿馬鹿しい。宗教関係者ではないが、以前「医師」と名乗る人から「私は医師だからからだの使い方は当然、完璧です」という、ここまでくると電波系?の「思い込み」としか思えないメールがきたことがあったが、彼らにとって主体的な意味での「からだ」ってあるのかしら・・・と思ったことを思い出す。
そしてそれを彼らがすることを、彼らのような職業についていない人がそうするよりがっかりしてしまうのは、私もまた「聖職者」に紋切り型なイメージと期待を抱いているからかもしれない。