えこひいき日記

another side

2004.02.25

私は時折「こわい」と感じるものが持つ魅力について考えることがある。例えば、ジェットコースターやバイキングやバンジージャンプがどうしてアトラクションになりうるのか、心霊現象やスポットを特集したテレビ番組などがなぜうけるのか(というより先に、どうしてそれを特集しようという気持ちになるのか)、ホラー映画や小説が娯楽になりうるのはなぜか(どうしてそれを書こうあるいは製作しようと思い、どうしてそれを読もう、観ようと思うのか)などなど。多分この問題を突き詰めると軽く本が1冊くらい書けちゃうと思うのだが、ここでは軽くこのことだけ書くに留めるが、でも不思議なことだと思うのだ。ちょっとシチュエーションやセッティングが違うと、これらはただ恐怖なだけである。魅力など感じようもない。しかし「こわい」ことがそれを恐怖し拒絶する理由にならない場合もある。こわくても、向かい合わねばならないことがある。そのとき去来する感情を、おおざっぱには「こわい」としか言いようがないのだが、それは実に色々なものを内包しているように思うのだ。

この発想の流れで、私は「もっともこわいいきもの」について考えることがある。どんな生き物が最もこわいだろうか・・・これだけの問いかけではあまりにも獏としすぎて具体的な形を自力で生み出すことが難しいのだが、他人様の発想を借りれば、例えば「エイリアン」なんかはちょっとこわいと思う。あんな生き物がこっちにやってきたら、割とさっさと抵抗を諦めるかもしれない。「エイリアン」のデザインをしたギーガー氏は「バイオメカノイド」というデザインコンセプトを持っておられ、「エイリアン」もそのコンセプトに基づいて生み出されたという。彼の作品集を見ていると、女性の身体と爬虫類と機械が混ざったような生き物?とか、機械の壁?の一部が女性の顔になっているやつとかがあって、独特なのである。あの作品の魅力を何と形容してよいのか。作品の中に登場する均整の取れた女性?のフォルムやエイリアンは一種「美しい」とさえいえるが、それは他者に対する親和性が一切ないという性質のもので、その美しさを認知することは、こっちが「喰われる」ことを受け入れることのような感じのものかもしれない。「喰われちゃうか」と思うことの方が、そいつを「こわい」と思い続けて踏みとどまって生きることよりも楽なような気がしてしまうのだ。普段のマインドに「戦闘モード」がない人間でも生き延びたいなら戦わなくちゃならないし、そうでなければ死ぬしかない・・・いずれにしろ既存の「自己」を放棄する以外に生き延びる術がない・・・さあ、どうするどうする!えっ!君ならどうする!と迫られてしまう。「エイリアン」をただ鑑賞していればよいスクリーンの前の観客の立場なら、その強迫をもエンターテイメントとし得るが、「現物」と対峙する場合はそうはいかない。

自分が恐怖するものと対峙したとき、人間はどんな行動をとるだろうか。憎むだろうか。恨むだろうか。その感情に則って相手が消滅すること、相手を破壊することを望むだろうか。まったく親和性のない(共感などしたくない)他者との関係は、そうでしかありえないのかもしれない。あるいは恐怖に「帰依(喰われる)」することを選ぶかもしれない。相手に「喰われる」ことを選ぶことで自分の葛藤や恐怖から免れようとする。その人にとって「エイリアン」とはもはや相手ではなく、自分自身の恐怖心に他ならない。
理解が成立し難いところにはただ対立があるのみである。「出会い」の数だけ「対立」が増えるだけだろう。真に対立を避けるには二つしか方法がない。出会うことを出来るだけ避け、出会っちゃったら関わらずに走って逃げる・・・そういう判断力と即応力を高めておくこと、要するに「迷わない」こと。もしくは自分の中にある理解力を出来るだけ高めておくことである。たとえそれが微々たるものであっても、親和性を見出しうる他者?との間では、相手に対して「参りました(喰われてもいいです)」みたいな事態になっても、それは「自己の消滅」を必ずしも意味しない。例えば、テニスの試合でも論議の相手でもいいんだが、ある意味(「全面的」である必要はないのだ)相手に「参った」といえることで自分もまた豊かになるような、わははと笑って互いの理解が深まるような、そういう対峙だってある。多くの心霊話(?)の中にある「救い」のようなものは、一見親和性がなく対峙しがたいと思える相手との間に、実は向き合うときにはきっちり向き合うべき大切な関係が存在することに気付くからこそかもしれない。そういうことも、人が飽かず心霊現象に魅力を覚える理由の一部かもしれないと思う(少なくとも、多くの日本の心霊話はそうだという気がする)。

少しだけ角度を変えて、今の自分を見てみることは、今とつながった未来に向かって歩いていく上で大切なことという気がする。「自分を変えたい」などという言葉をよく聞くが、その言葉の真意や方法は慎重に見極めなくてはならないと思う。問題トラブル意識に向かい合うことは自分に向かい合うことに他ならない。それに「こわい」という感情を覚えない人はいないだろう。問題ポイントはそれをどう扱うかだ。
問題をただの厄介者扱いしてきた場合、自己を放棄したり現在までの流れを汲まないかたちで、やたら対処を急いでしまう人もいる。(でもそういう場合、結局同じトラブルを繰り返すことが多いのだが)出現した問題意識に対して「黙殺」や「がまん」以外の対処をしてこなかった場合、最初に持つ「自己意識」のかたちは「怒り」というかたちをとりやすい。「怒り」によって自分の輪郭がはっきりとし、強くなったとすら感じることがある。しかしそれはいずれも過程に過ぎない。過去に『サイケデリックスと文化』の中でも書いたことだが、自分を変える手段を自己責任抜きで手に入れようなどとすると、たいていコケる。それは一般的に成功率が高いという方法をセレクトしたとしても、変わらないと思う。「じぶん」を続けていくのにはつくづく体力が要る。知力も。自分の人生は自分の一生をかけて生きるだけの価値があると、最近すこし思うようになったのだが、そのために「こわさ」・・・暫定的にそのような言葉でしか表せない何か・・・に向かい合ってみようか、などと思うのである。

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