えこひいき日記
アフタートークの意義
2004.03.05
このところ、ダンスの舞台を観ることが何かと続く。その中で、最近の傾向として上演後に「アフタートーク」というイベントが催されることが多いことに気がついた。本当に多い。流行なのかしら、これって。
「アフタートーク」は文字通り、終演後にダンサーが観客に向かって言葉で自分たちの作品を語ったり、質疑応答を行うイベントである。司会役の人が入って、コメンテーターや評論家が加わることもある。恐らくは、舞台上のダンサーや製作者と観客をもっと近づけ、更なる理解を深めるための、ダンス・エデュケーション&コミュニケーションを目的として始まったイベントだと思うのだが、時々「?」と思うことがある。率直に言って「作品だけ観て、帰ればよかった」と思うような「アフタートーク」も少なくないからだ。それでも時には、作品の中で感じたことが上演者やコメンテーターの言葉によってさらに深い納得や共感に導かれることもある。作品を創っていく過程のことや、アイデアの広がり方を「ことば」という「表現」で受け取ることで、さらにそのダンスやダンサーに対しての興味が深まることもある。しかし、残念ながら、多くの場合、誰のためやら何のためやら明確ではない「やっつけ仕事」をしているようにしか見えない。
このイベントを企画する側は、これをも「表現行為」として認識しているのだろうか。ダンサーは当然ながら上演時間の何倍もの時間をかけて作品を創る。もちろん残念ながら時間をかけて努力すれば必ずしも面白い作品が出来上がるというわけではないが、しかし「そういう作業をしている」ということをきちんと踏まえるべきである。だから、ダンサー自身にせよ、批評家にせよ、その作品を語り批評する行為もまた「創造的行為」でなくてはならないと私は考える。批評家はその個人の好き嫌いを言えば仕事をしたことになるのではない。面白くないのであれば、せめて自分ならどうすれば思いろくなると考えるか、どうすればダンサーの意図がもっと表現しやすくなると思うのか、それを言語化してもいいのではないかと思う。製作者もまた、踊りでしか出来ないことと、言葉でこそ出来ることを、わきまえた上で「アフタートーク」に臨むべきである。あほな質問には答えなくてよいし、司会者や批評家の言葉の圧力をかわす心構えくらい、胸の内に用意しておいてよいと思う。観てわかんないやつ(観えていないやつ)には言ったって大してわかんないものなのだ(悪口雑言)。その溝を深めるためにわざわざ行うイベントではなかろう。
多くの「アフタートーク」はそのための準備が圧倒的に不足しているように思うのだ。そこで何をしゃべるのか、何を伝えたくてこのイベントを行うのか、打ち合わせすらないまま行われているのではないかと思う(現にダンサー側からは、そう聞いている)。
イベント企画側の方、もうちょっとがんばってね。