えこひいき日記

カラダのカタチ

2004.03.10

おかげ様でこんな仕事をしていると、ダンスやコンサートの招待券というのを頂くことが多い。おりしもこのところ京都では「アルティ・ブヨウ・フェスティバル」 というダンスの公募公演が続いていたので断続的に同じ劇場に足を運ぶことが続いた。一つのカンパニーが上演する作品集ではなく、全く別々のユニットやカンパニーや個人が、全く違うジャンルのダンスを一晩に5作品ほども上演し続ける機会というのは意外と珍しいかもしれない。そういう意味でこの公募公演の意義は深いだろう。
それにしてもおんなじ「からだ」を一人に一体づつ所有していても、その用い方とか、用い方を生み出す発想というのはさまざまだな、と思って感心する。同じ右腕一本の動きでも、そこから多様なボキャブラリーを引き出せる・・・あるいは、そのような可能性を認知した上で、あえて一つのムーブメントを選択していると思える・・・ダンサーもいれば、すっごく練習しているのはわかるし、キャリアもあるのかもしれないけれど、明らかに与えられた動作を追うことに追われて、それ以外に自分が描けるのカラダの形などないと思っているのではないかと感じるような出演者もいる。
作品の表現としてどのような動作がふさわしいかは製作者としては非常に悩ましく、だからこそ面白いところだろうと思う。作品表現として「からだ」をみるときに、あるいは一観客としてダンスを見るときに、何も滑らかな動きや「からだの使い方」として完璧な動きだけが即ち「良い」とされるものでないことがわかる。ときどきダンスの舞台にも、いわゆるダンスの訓練を全く(少なくとも継続的には)受けていない人間が出演することもあるが、その人たちの動きは面白く、この作品に必要なものだよな、と感じられて楽しいものもある。ただ、それは作品レベルの魅力であって、一人のダンサーとしての魅力とはまたすこし違ったものである。作品というレベルではなく、一人のダンサーというレベルでその所作みたときに、意識の低い動きをやはり美しいとは思えない自分がいる。だが同時に(恐らくパフォーマーの意識を高めることに貢献するであろう)「からだの使い方」も、それを完璧に行うことがパフォーマンスの目的ではなく、ただ自分が表現したいものを表現しやすくするための、ただの手段である。だからカタチだけを追うダンサーを私が好きになれないように、舞台上で「からだの使い方」にだけかまけるダンサーがいたとすれば、その人のことも私はダンサーとして好きになれないだろう。

このような公演を拝見したり、ワークショップで様々な方にお会いするたびにつくづく思うのは、「からだ」は物理的な存在でありながら、ただ機械的に(つまり自分の意思だけによらない働きであるところの)細胞の分裂や代謝によって形成され変化するものではなく、ある意味でその人物の歴史の側面であり、思考(志向・嗜好・指向)の変遷である、ということである。目の前にあるのは今の、この一体の身体であるが、その筋肉は今の今作られたものではないし、その動き方は今始めて行ったものではなく、意識的にしろ無意識にしろ何度も何度も繰り返されて、「そのひと」のカラダのカタチになっているのだと感じる。そういう意味で、人間のカラダは全身がその人のIDだという気がする。
だが一般的には常に全身がIDとして認識されているわけではない。例えば「顔」というのは身体の一部だが、そのカタチはいわゆる「首から下」よりも個人の認識標識になる場合が多い。いわゆる証明写真で撮るのは「顔」だけで、全身でも、血管でも、指紋でもないしね(指紋や血管のパターンを認識してキーに成っているドアやパソコンもあるけれどね)。ちなみに私は人の「名前」と「顔」をマッチングさせたり、「顔」か「名前」かだけを見てどなただったかを思い出すのがそんなに得意ではないが、クライアントであれば筋肉を触るといつ頃に来たどんな人であったかを顔を見るだけよりはっきり思い出すことがある。普通いちいち筋肉の状態で人のことを認識したりはしないから「こういう認識の仕方って、ちょっと特殊なんだろうな」と思ったりはする。ただ仕事をしてきて思うのは、視覚的にだけ確認できる個人というのがいかに表面的で部分的か(あたりまえか)・・・ということである。それがよいとかわるいとか言っているのではない。ただ、視覚的に「見える」ことだけで満足するには、人間は奥が深いよ、とおもっちゃったりするのである。多分、私はそれを面白いと思えるからこんな仕事をしているんだろうと思う。視覚的には似たり寄ったりに思え、名称としても同じ「腕」だとか「脚」だとか呼んでいる部位が、実は個人によって用い方や身体的なボキャブラリーが随分違う、というのは日々新鮮な驚きなのである。

クライアントと教師という関係で、多くの方の視覚的には「みえない」カラダにたくさん触れてきた私だが、一般的に言って「よく知っているヒト」なのに「みたことがないヒト」という人物もいる。例えば家族がそうである。私は自分の母がどんな脚をしているのか、クライアントの脚ほどには知らない。父の広背筋がどのような使われ方をしているのか、自分のクライアントほどには知らない。身近な人であるが、その人のことを知る意味で、触ったことが無いのだ。ただそれは、意図的に避けてきたからのことでもあった。
以前にも「日記」に書いたことがあるが、個人的に「親しい人」に「プロの技」を使うにはそれなりに配慮が必要だと思うからだ。私の仕事は「指導」であって「治療」ではない。その方の習慣的な「からだの使い方」をアドバイスをすることである。だがそれはすこし方向を間違えればその人の癖をあげつらうことや、その人の表立っていない部分を見抜く、ということにも通じてしまう。レッスンを受けるクライアントは、自分ではわかりえない自分自身の問題を知るために鏡のように教師の存在を利用するわけなので、ただの「嫌味」で終わることは普通ないが、その危険性はいつもとなりになると思っている。教師だからといって指導の名のもとに相手を不快にする権利を有するわけではないし、私はそれを望まない。私のレッスンを「上品だけど、シビア」と言ったクライアントさんがいたが、私の指摘が「相手を傷つけるような発言」や「余計なお世話」に終わるのではなく、ちょっと耳に痛いところもあるけれど「アドバイス」として機能するのは、そのコンセンサスがあるからこそだと思う。レッスンは「言う(言える)人」の口だけがあっても成立はしない。「聞く人」の耳があって初めてレッスンとして機能するものなのだ。だから私は「耳」を待って自分の「口」を開く。
私は相手の火を問いただすためにこんな仕事をしているわけではなく、より自由になる手助けをするためにアドバイスをしたいと思っている。だからこそ個人的に親しい人に対してほど「注意」や「アドバイス」って難しいと思うのだ。特に親子であれば、その指摘内容の的確さうんぬんよりも、ただ「こんなことを言われた!」というショックの方が勝ってしまい、不毛なけんかになることも少なくないような気がする。そのけんかの規模も「売り言葉に買い言葉」レベルで、そう深刻ではないから「なんでもないこと」のようだが、その代わりに、伝えようとした言葉の意味が相手の耳に本当に届くこともないかもしれない。あるいは、相手との既存の関係を気遣うあまりに生ぬるいことしか言えなくなってしまったりする。他人には容易に通じる言葉が親子では通じない、ということもよくある。家族の関係は変化や異変を嫌う。保守的なのである。それがたとえよい方向の変化であっても、変化というだけで不安を感じることがあるのだ。本当にそのことにお困りでレッスンにいらっしゃるクライアントさんとは度合いの違いはあれ、私とてその関係から免れているわけではない。
だが先日、祖母と母のからだに触れる機会があった。これまで自分の親から「なんか肩の調子が悪い・・」等々恐らく私の仕事内容にかぶるような質問を受けたことは何度もあった。どの回もなるべく口頭でアドバイスできることに留め、親の身体に直接触れることは最小限にしてきた。からだに触れると私にはいろんなものが見えてしまう。正直に言って娘としてみたくないというか、見るのがこわい(と思っている)ものもある。親にえらそうな口など聞きたくないし、娘として、でもこういうスキルを持っている人間として、自分に何が出来るのか私にはまだ見極めがついていなかった。けれど、今回は、必要があって身体に触れた。祖母の身体が、母の身体が、こんなカタチをしていることをはじめて正面から目にしたような気がした。そのことは新鮮で、結果的にかもしれないが、そういう機会に恵まれてよかったと思った。ムスメとしても、プロとしても。素直にいとおしく思えた。彼女達の身体はけして完璧なものではなく、長年の「からだの使い方」が刻まれ、変形した身体だったけれども、それに触れたときに私に沸き起こった感覚はけして怖がっていたようなものではなかった。他のクライアントと全くおんなじ、というのでもないが、かといって親だから違うとか、違わせちゃいけないというような、葛藤は一切生じなかったのだ。哀れみでも罪滅ぼしでも関係を修復するための接触でもない、接触。私が触れている人物が自分の親だとわかっているけれど、ニュートラルだった。ただ、それにかけた時間はほんの短いもので、普段のレッスンとは比較にならない。時間的な面でもクオリティでも、普段のレッスンの比ではないくらいささやかなものだ。でも多分、それがお互いにとってちょうどよいのであろう。
それは私にとってすこし解放感のある出来事であり、大きく言えば、からだにアプローチする可能性をまた新たに見出しえた出来事でもあった。

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