えこひいき日記

自己責任・・・迷惑?に対する‘ありがとう’と‘ごめんなさい’について

2004.04.21

ボランティアや福祉とは「おこぼれをほどこすこと」ではないし、自己責任とは「ペナルティ(だけ)を背負う」という意味ではない。本来的には。でも最近のイラクでの邦人拘束がらみの報道を見ていると、どうもいらいらしちゃう。上記のように思っている人が以外に多そうだからだ。日本て、いまだに「おかみ」というか、政府が国民を支配するもの、という体制が強いのかしら。表面的には「国民の税金で(公共事業を)まかなっているのですから、国は皆様国民のために・・・」といってはいるが、言っていることと本当に思っていることはかなり違うのかもしれない。しかもそれを言っている人間がそのことに気がついていないのかもしれない。いかん。くらーい気分になってしまうわ。でも、これが私が住んでいる国、日本なのよね。

「迷惑をかける」という言い方があるが、それってなんだろうなあ、と改めて考えたりする。自分の中でも日本語としてまだ確定していない感じがするのでこう言う表現で妥当か迷うところもあるのだが、「迷惑」をかけることと「世話」をかけることって、違うことだと思うのだが、ごっちゃになっている感じがして、めんどくさい。「迷惑」ってかけられたら「被害」かもしれないが、「世話」をかける(お世話になること)って「被害」とは違うよね。「迷惑」をかけたら「ごめんなさい」だけど、「世話」をかけたら「ありがとう」だと思う。(私は、イラクにおける邦人救出については「迷惑」ではなく「世話」だと思っているのだが。確かにすごく労力の要る「世話」だとは思うし、世話するほうも大変だとは思うが、「世話」の代償として被害者に「あやまれ」とか言うのはものすごくお門違いな気がしてしまう)
日常的には、「ごめんなさい」と「ありがとう」の混在というのは、よくあることだと思う。例えば、人の落としたものを拾ってあげて「ごめんなさいねぇ」「すみませんねぇ」と言われることなど。ただ、私は個人的にその人の言葉ではなく態度を聞くので、私の耳には自動的に「ありがとう」として伝わっているのかもしれなくて、このように本来的に「ありがとう」という場面で「ごめんなさいね」と言われても、それはあまり不快な感じは受けない。逆だったら(「ごめんなさい」の場面で「ありがとう」と言われたら)ちょっとむかつくけどね。自己認識や反省の甘い人間って、基本的に嫌いだから。
卑屈に縮こまって「ごめんなさい」を連発するくせに、他人に対して攻撃的な人間というのがいるが、そういうのは基本的にしんどい。そのような人間の使う言葉は、メッセージ・センダーではなくブロッカーである。言葉によって自分の心をさらさないように隠す。そういう人間が感じる他者とのかかわりとは、基本的に「迷惑」ベースなんだろうな。「世話 care・・・心をかける、関心を持つ」ではなくて。

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