えこひいき日記

平和な沈黙に至るまでに

2004.07.18

たまに倒れるほど疲れるクライアントが居るものだが、それが2日間続いたので私はその後数時間死にそうになった。まあ仕事だから仕方ないんだけれどさ。
人間関係って・・・特に家族の関係(親子や夫婦)って、なんてしんどいんだ、と思うことがある。こんなに近くに居るのに、こんなに近い関係なのに、言葉が機能しない。それぞれがそれなりに勇気を出して出し合う意味ありげなサインはことごとくすれ違い、口を開くのはクレームと要求と宣言のときだけで、「会話」とか「対話」が無い。「理解」という現象が砂漠の中で雨に降られるのと同じくらい、奇跡的な出来事のように思えてしまうほどの絶望感と疲労感。家族でなかったら、こんな絶望感は襲ってこないかもしれない。なんてしんどいんだ、と思う。
あるクライアントさんが夫との話し合いについて話してくれたことがあった。言葉がすれ違い、どうしても相手が自分のことをわかってくれない悲しさを攻める口調になってしまう。その激しい態度を相手はまともに自分へのクレームと取る。それがさらにしたくもない争いに油を注ぐ。「私、夫に自分の何かをしてほしいとか、自分の代わりに重荷を背負って欲しいとか、そう言うことを要求するつもりは無いんです。ただ、夫が私のことを「わかった」って言ってくれたら、本当に理解するのなんて難しいかもしれないけれど、でもそうする態度で臨んでくれたら、私は自分の負うべき物を自分で背負えるんです」と。この言葉を言ったときの彼女の真摯な表情が印象的だった。この一言が醸造されて出てくるまでに、何と多くの時間が費やされていることか。この一言の後にも、多分夫と話し合うことはたくさんあるだろう。わかってもらえないと思って心が乱れることもたくさん在るだろうと思う。それでも、この一言が口に出来るのと口に出来ないのとでは違う。心乱れる状況に慌てて何かしようと暴れ回るのにいそしむのではなく、自分で自分の状況をきちんと認識する勇気をもつこと。そうでしか、多分、この先を生きていけない。

先日倒れるほど疲れたのは、お互いが相手のために(?「ため」なのかはわからないが「ゆえ」ではあると思う)ほとんどパニックに近いような「努力」をして疲れ果てている親子に面接したからである。彼らが「相手のため」と称して自分の中の不安に反応するのではなく、お互いの姿を見て話が出来るようになるまで、どのくらいかかるのだろう・・・と思うと、こちらもしばし絶望的に疲労してしまった。行き交う日本語は、語数も多いし、文法的には破綻がないというのに、言葉にパッケージングされているはずの意味がこちらに伝わってこない。まるでけして溶けないカプセルに包まれた薬を飲み込んでいるような心地になる。言葉って、こんなに胸焼けがするものだったっけ。
恐らく、彼らにはホームドラマに描かれるようなべったべたの「和解」だとか「理解」だとかが訪れることはないと思う。そういうものをうっかり目指しちゃうとおかしくなるぞ、と思っている。でも彼らを見ていると、自分たちがどういう親子になりたいのか具体的に(現実的に)考えたことがないような気がするので、慌てるとどっかから借りてきたようなイメージを無理やり自分たちに当てはめそうで、こわいな、と思ったりする。現実的に考えることが苦手な人たちに「考える」ことをしてもらうのは大変だが、でもそう努力していってもらうほかない。
彼らに必要な「理解」の境地は、お互いの姿を目撃しても反射的に荒ぶることがない、というステージであろうと私は思っている。楽しく会話をする必要はない。ホームドラマのように笑いあう必要もない。何かしなくちゃいけないというプレッシャーを掛け合わず、黙してお互いの姿を眺めていられる、そういう「平和」にたどり着けたらいい、と思っている。
長い道のり、という気もするが。

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