えこひいき日記

3年

2004.09.10

この夏は何気なくハードな仕事が続いたので体重は2キロ減少した。最近は体重の回復はあるが、疲労はしている。また普段全く運動をしていないので、筋肉にも衰えはあるように思う。やはり仕事ばかりしていてはいけない。自分のために自分の「からだ」を使う時間を確保しなくてはと思う。

明日は9月11日。3年前にアメリカで同時多発テロが起こった日である。幸い私の直接の知人でなくなった方はいなかったのだが、そのまた知人となるとその中には犠牲になった方もいる。崩れていくWTCを呆然と画面の中に見たあの日の記憶は今も鮮明だ。
あの日から3年の間に何が起こったのだろう。戦争がはじまりたくさんの人が亡くなった。「テロ」と呼ばれる行為とそれに対する報復が各地で起きてさらにたくさんの人が死んだ。日本の自衛隊もイラクに派遣された。先日はチェチェンで大勢の子供たちが死んだ。
一方で、「報復」や「テロに屈しない」という名目の元に国家レベルでの殺戮が行われることを止めるべく活動している人もいる。その中にはいわゆる「テロ」の被害者の遺族達もいる。また、WTCのあった場所には今も千体以上あるという個人の特定がされていない遺体(の一部)があるというが、身元の分からぬ犠牲者を家族に返すべく、延々たる努力を続けている人たちもいる。事件から3年経っている。それら遺体の一部は、申し訳ない言い方だが、もはや「物体」としてしか認識できない状態になっているに違いない。しかしその「物体」を「人間」として扱い、年月が経っても家族に返すことが、この辛い出来事を越えてなお生きなくてはならない遺族・・・拡大解釈すれば、あの事件の後生きている私たちは皆「遺族」なのかもしれないが・・・にとっては大切なことことなのだと思う。辛いことではあるが、きちんと死を認めなければ生きていけないような気がするのだ。そうした行為の一方で、「テロリスト」「○○人」という標識の下に、それこそ「物体以下」の認識で他者を殺害することを自分に許せる考えもある。
それが同じ「人間」という生き物の中に存在していることに、なんともいえない気持ちがする。

こんなふうに、人が死ぬこと、殺されること、そして生きているということの意味をこんなに「日常的に」考える機会はこれまであまりなかったのではないかな。一般的に。上記の「テロ」以外の事件でも、人が簡単に殺されるニュースに遭遇することが多くなったように思う。その悲惨さに目を奪われ、目をつぶってシャットアウトしてしまいたくなるが、でも一つ改めて思ったことがある。人間はもともと簡単に死んじゃうものなのである。生きていることがあたりまえなのじゃなくて、本当は死にやすいものを一生懸命守って生きているのである。だって、階段から転んでも、ちょっととがったもの(ナイフとか、錐とか)が刺さるだけでも、小さい鉄の玉(銃弾とか)が当たるだけでも、死んでしまえるものなのだ。ストレス状態・・・自分の通常のリアリティからして「受けれられない」「ありえない」と思う状況・・・が発生しただけでも、人は死ぬことが出来るのである。生きているということは、けして自動的な現象ではない。でも生きていることが単に習慣化しちゃうと、それを忘れそうになることがある。守られるシステムがあたりまえすぎて、見えなくなっているような気がする。
「生きている実感がない」という人に出会うことは、仕事上でも少なくない。それって自分を知らない(興味が向いていない?)、ってことなのじゃないかな、と思うことがある。その場その場の対処だけで生きていて、するのに精一杯で、自分が何をしているのかわからないんだな、と思うことがある。しかし「わかる」ことの難しさも私なりに知っている。仕事をしていて、相手が「わかる」ことって、要するに本人がわかりたいことだけなんだな、と思うことは度々ある。こちらの行っていることのリアリティが相手の中になければ、言語は判読されても意味は解読されない(ブッシュだってそうだよねー。彼は本当に「わからない」からわかんないんだよねー)。何十回、何百回言っても、やっても、それが本当に相手に分かるようになるのは、私が言う前にそのことが相手の中に既に「ある」場合だけだよな、と思うことはたくさんある。でも、何百回目かに私が言う前に、相手が既に伝え続けていた「それ」を、かけらでもいいから自分自身で取り出すときが訪れるように・・・と思って、私は伝え続けるんだけれども。多分、養老司氏は『バカの壁』の中でそんなことをおっしゃっているようだが(すみません、私自身は読んでいません。又聞きしたことからの推測で書いています)、私にとってそんな「バカ」は日常だ。リアリティという名の「バカの壁」の厚さに毎度呆然としている。すんごい徒労だ、と思いながらも、諦めるのに足りないのは、ときどき「わかる」ことが訪れてくれるからかもしれない。何千回かの「バカ」よりも一粒ずつの雨粒のように訪れる「わかる」が嬉しいから、私はぎりぎり絶望していないのかもしれない。

次の本の中には、割と具体的で物理的な「からだ」とか「からだの使い方」のことを書く予定なのだが、それだけじゃなく、「死」のことも書こうと思う。ネガティヴな意味でではなく、「生」との対義語としてではなく、生きていることの一部として「死」についても扱いたいと思う。生きているうちに体験するさまざまな意味の「死」について書くことが、「からだ」や「生」にリアリティを持ってもらえるのではないかと思っている。
逃げずに生きることが難しいことは私なりに知っているし、自分が生きたいと思っても、不意に中断されることだってありうる。だから「生きない」のではなく、それでも生きてみることを選択したいと思う。

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