えこひいき日記

2005年3月6日のえこひいき日記

2005.03.06

もう3月だというのに、急に雪が降ったり、なんだか不思議な天気である。しかしながら季節は確実に春に向かって動いている。

なんだか慌しくと気が過ぎてしまって、なかなか思うように仕事が出来ない。この場合の「仕事」とは原稿書きである。「仕事」といえばクライアントへのレッスンはほぼ毎日やっているわけで、しかもどちらかといえばそちらが「本業」なわけなのだが、しかしもういいかげん原稿を書いてしまいたくって仕方がないのである。前回書いた書下ろしの「あとがき」にも書いたことであるが、私は原稿向きの「のーみそ」が働き始めると脳のミゾが痒い感じになる。「感じ」はそんな感じなのだが、だからといって大脳の外側溝が炎症を起しているのではないか・・・などと思っているわけではない。だいたい本当に「脳が痒い」のかどうかもわからないし、感じた通りのことが本当にその部位で起こっているとは思っていない。しかし自分の感覚・・・それを「体感」と言っていいのか、それとも身体とは関係がない「精神的」な(?)感覚といっていいのか、私には分からないが。そもそも身体か精神かなどという分類にそれほどの意味があるのかも分からないが・・・に忠実に表現するならば、そんな感じなのである。そんなわけでそろそろ思う存分痒いところをひっかきたいのだが、なんでだか、日々のレッスンと記録書きなどをしていたら日々が過ぎてしまうのである。そんなわけで、一人密かに あぁぁぁ・・・などとうめいているところである。

そうは言いながらではあるが、ストイックに事務所にこもって業務をしているばかりではなくて、この3日ほどは仕事の合間に出歩いてもいた。建築家の友人が自身で設計した自宅が完成したので見せていただきに行ったり、クライアントの舞台などを拝見しに行ったのである。行っただけではなく、友人の家でつい話し込んで長居をしてしまったり、立ち寄った行きつけのバーでたまたまお祝い事があってカラオケに誘われ、そのまま朝の4時まで飲んでいたりもした。(飲んだと言っても、遊んでいた6時間の間に飲んだアルコールはカクテルとワイン1杯ずつで、あとはウーロン茶だったが)
最近、ちょっと立ち寄った店で思いのほか長話をしてしまうことが多い。そんなことをしているからどんどん時間がなくなってしまうのかもしれないが、しかしそういう時間のすごし方は楽しく、それにこれをしなかったからといって原稿がはかどるような気もしないので、まあいいか、と自分に甘く許したりしている。経験的に、こう言う時間が永続するものではなく、シーズンみたいなものだと思っている。同じ店に立ち寄っても、何もしゃべらないときはしゃべらないし、外出すらしないときはしない。楽しくしゃべってしまうときにしゃべってしまうのは、まあ、いいかな、などと思ってしまっているのである。

それにしても、本日見せてもらった舞台ではちょっと考えこんでしまった。理由を端的に言ってしまうと「不愉快」なダンサーを2人みてしまったからである。下手、というのとはちょっと違う。まあ下手でもあったのだが、そのことは「不愉快」ではない。言ってしまえば「下品」だったのである。自分の「からだ」というものや日頃の練習への取り組みのいいかげんさが作品中の動きにバレて出てしまっているのである。荒っぽくて浅くて断続的で、それに気がついていないもいなくて、むしろデキるような顔をしているところがたまらなく「下品」。表面的には決められた段取りを間違えているわけでもないし、それをして「やってますぅ(ちゃんと踊ってますぅ)」みたい顔(「顔」といってもいわゆるフェイスだけではなくて、その全身ね)をしてみせているところもある種の「表現」「個性」のようにみえるかも知れない。私もそれが計算して演じている「キャラ」であると思いたい、と思った。でも、1時間弱続くその舞台を観ているうちに「これはキャラクターを演じているのではない」と思わざるを得なくなってしまった。そんな感想を持ってしまうって自分でもショックなのだが(だって、深からぬ関わりとはいえ、自分が教えたことのあるダンサーが出ている舞台なのである)そう思ってしまったので仕方ない。
とはいえ作品自体はなかなか面白かったのだ。一歩狂えば最高につまらなくなりそうな展開の「根気のない動きの連続」を絶妙の間(呼吸)と照明がちょっとした物語にもみえそうに紡いでいる。全体的にダンサーもなかなかがんばっていた。
こういうスタイルはこの作品の構成・振り付けを担当した人物の作品の特徴で、私は個人的に「ダンサー泣かせ」の作品だと思っている。確立したダンス・メソッドに乗っ取った訓練を受けたダンサーほどリハーサルでは苦しむだろうと想像している。もしかしたら一つのメソッドを深く学んでいないキャリアの浅い出演者の方が疑問を持たずにリハーサリングしやすかったかもしれないと思う。なぜなら、この作品で要求される「完成度」とは本番に向かって振り付けを踊りこんで「成熟させる」とか「練り上げていく」というような濃い感じのものではなく、練習を重ねた上での舞台であってもそこで起こったことはまるで偶然のハプニングであるかのような「煮つまらなさ」を保つことを要求されているように思うからである。完成した安定感より、どこかが欠けているかのような「不全な感じ」が作者は好きみたいなのである。そういう感じは私も結構好みなのだが、このような場合、リハーサルの進め方が至難と想像する。リハーサルしなくては作品ができないが、しかし出演ダンサーが安心しそうな「安定したリハーサルの進め方」をしてしまうと作品が死んでしまう、というややこしい状況が生じてしまう。振り付け側も、ダンサー側も、たいへんだったろうな・・・と思う。
で、本番を拝見して思ったことは、やはり踊れるダンサーの方が踊れる、ということだった。難易度の高いテクニックを披露するだけがダンサーの仕事ではなく、意味のなさそな、なんでもないようなムーブメントに「なにか」を宿らせることができるのがダンサーなのだと、あらためて思った次第である。同じようなしぐさをしていても、その差は残酷なくらい歴然としていた。日々の訓練は、ただ与えられたメニューのムーブメントをできるようになることが目的なのではなく、それが自分が何をしているということなのかを知り、それでもって何をし得るのかを知るためにある。でも訓練とはただ与えられたメニューをこなすことだと思っている人間は、やはりそんなふうにしか動いていないので、こういう作品に参加すると最高につまらなくなってしまう。

私ねー、みなさんもう少し「じぶん」というものに対して自覚を持って取り組んでいてくださるものだと、勝手に誤解しておりましたわ。甘かった。「みんな」ではなかったわね。気がつかない奴って、気がつかないで舞台に立っちゃうのね。うかつでした。
次回から自覚のないダンサーには10倍くらい厳しくします!と宣言する芳野でありました。

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