えこひいき日記

2005年6月6日のえこひいき日記

2005.06.06

もう何ヶ月も前の話になるが、全米アレクサンダー・テクニック教師協会AmSATから以下のような主旨の一文が届いた。「念のため申し添えますが、公認教師が非公認の教師認定組織の教師養成コースに関わって教えることは、あなたも非公認組織の一員とみなし公認教師協会からの除名理由の一つになりますのでご注意ください」

現在日本国内において「アレクサンダー教師養成コース」を名乗っているカリキュラムは全米及び全英の教師協会(世界最大のアレクサンダー・テクニック教師の協会)の公認を得ていない。彼ら公認の資格を得ようとすれば今のところ留学しか方法がない。それは日本に住む人間にとっては時間的、経済的、文化的に負担の高いことである(しかし本気で教師の資格を取得することに意義を感じているのであれば、留学する価値はあると私は思っている。またアレクサンダーテクニックを「学ぶ」ことと「それを教えられる勉強をする」ことは似て非なる学習行為なので、安易に混同すべきではない。くわしくは「Q&A」コーナーをご参照あれ)。
そんな中で十数年前から非公認ながらアレクサンダー・教師の養成コースを運営してきた人たちの行動は、好意的に言うならば大変「熱心」といえるかもしれない。それほどまでにアレクサンダー・テクニックに魅力と意義を感じているからこそ、AmSATやSTATの公認を得なくても養成コースを「やろう」と思ったのかもしれない。
しかしながら、その養成プログラムの内容には公認資格のプログラムとはやはり開きがあり、そのようなかたちで養成された教師の資質について疑問を持たざるを得ない部分もある。私の方に寄せられる意見の中にも、単に個々の教師・生徒(クライアント)の相性の相違だけとは片付けられないような話が少なからずある。もしもそれが日本におけるアレクサンダー・テクニック教師の教育、在り方に依存する問題部分が多いとするならば、アレクサンダー教師を名乗る者としてレッスンをお受けくださる方に申し訳ないと思う。
クライアントの皆さんにはなるべく最初から良い出会いがあることを望んでやまないが、自分に合う教師探しは慎重かつ丹念になさることをお勧めするよりほかない。焦りに負けると自分が何を望んでいるのか見分けが付かなくなるので、けして焦らず。教師になることを考えておられる方も同様です。自分の問題の解決を教師になる勉強をしながらできるなどと思うのは、甘い。資格をもらえるなら先生になる勉強を始めちゃったほうがお得、なんて考えるのも甘い。本当に自分を大事にして、自分の能力を他者に還元することを考えているならば、きちんと段階を踏むべきです。

実はずっと以前になるが、ある非公認のコースを運営する人たちに記憶にある限り2度、私なりの意見(改善の要請)をしたこともあったが、あまり好意的には聞いてもらえなかった。「あなたはエリートだから・・」などとも言われた。私は彼らに「反対」「否定」をしているわけではなくて、「同調していない」だけ、「違う意見をもっている」だけだったのだが、結局 公認VS非公認 みたいな対立的な構図で片付けたいのか・・・と悲しくなった記憶がある。それ以来あまり積極的に関わらないようにしている。まあ彼らは私のような「部外者」に介入されずに自分たちのやり方でやっていきたいのだろう。
しかし対立構造といえば、上記のAmSATのお達しも同じかもしれない。私はいちおーAmSATのメンバーなんだけれども、正直言ってわざわざこういうお達しを受けるのは少々うっとおしい。仲良く放っとけばいいじゃん、と思うのは、私が結局「組織目線」で物事を考えていないからかしらん。
まあどのみち、実際のレッスンにおいてその教師(あるいは組織?)が「よい教師」なのかそうでないのかは、教師自身が決めることではない。

私が10年間日本で仕事をしてきて思うことは、所詮「公認資格」などというものはほんの「入り口」であって「ゴール」ではない、ということである。勿論他のエンターではなくその「入り口」をくぐれることも大事なことだとは思う。しかし実際にレッスンを通して多くの人たちと関わる上で、私がいわゆる非公認教師ではなく公認教師であるということは単なる事実だが、それ以上のことを誰に対しても保障するものではありえない。だいたい10年これで飯食ってきて、まがいなりにもアレクサンダー・テクニック関係の翻訳をしたり書き下ろしなんかも書いていて、教師としてのよりどころを其処にしか持てないとしたら、わたしゃ単なるあほやと思う。だって、公認・非公認という基準だけで教師の良し悪しを論じようとすることは、逆にいえば「では公認(ないし非公認)であるところのあんたはなんぼのもんじゃ」という問い返しに他ならないんだぜ。これって例えば東大出身の人間が「いや、東大なんてたいしたことないですよ」と言っているのと同じようで、ちょっと嫌味に聞こえるかもしれないが、しかしやはりその立場にあるからこそ感じる実感はあると思う。謙遜や嫌味ではなく、公認資格は、大事なものではあるが、たいしたことではない。それはどの資格においても同じだと思うが、例えば秘書検定に合格した時点で秘書としてばっちりというというのではなく、医師国家試験に受かった時点から素晴らしい医師というのではなく、「その後」のことが結局資格の価値を決めるのではないだろうか。

私とて、今後「アレクサンダー・テクニック教師の資格」の価値が地に落ちることを望んでいるわけではないから、私なりに真摯に仕事をしていこうと思うが、AmSATが組織として望んだ「価値保存の方法(の一つ)」が上記のようなお達しであったということか。
組織の利害でいえば、公認組織にとって非公認組織の存在はいよいようっとおしいのであろう。非公認組織の存在は15年以上前からアメリカ側も認識していたはずだが、こんなお達しがきたのは初めてだからね。まあ、逆の立場からも同じかもしれない。しかし個人のレベルで、アレクサンダー・教師として公認か非公認かということを外して考えれば、どちらの人たちの中にも魅力的なたくさん人物はいる。ひょっとしたらアレクサンダー教師としてはたいしたことがなくても、何かを
正直言って私にとっては「個人のレベル」というのがとても大事で、その個のレベルにおいて有意義な出会いがあれば、それでよいのだと思うのだ。
今回のことで改めてそう思ってしまった。

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