えこひいき日記

2005年10月13日のえこひいき日記

2005.10.13

書かなければ書かないでいられるものである、この「日記」。しかしながら書くべきことがなかったわけではなく、9月中はほんとにいろんなことがあったのだが、それを文字にする気力と時間にいささか欠けた状況に身をさらすうち、今日まで時間が過ぎてしまったという次第である。うにに。
それにしても、思い返せばいまだ記憶は去らずして思い返せるほどに、この40日ほどの間も色々なことがございました。嬉しいことも、むかつくことも、悲しくなることも、絶望感に打ちひしがれそうになることも、希望を感じることも。そのうちちびちび書くこともございましょう。

ところで「なんとなく菜食」という食生活は続いている。8月あたりから始めたことなので、かれこれ2ヶ月を過ぎたが、不思議なもので全くといっていいほど肉や魚を食べたいという気持ちが起こらない。私は「宗教上の理由」や道徳的な戒律(不殺生とか。でもこれ、「動物」だけに適応するのもどうかとは思うが)を守る目的で菜食をしているわけではないので、肉食をすることへの心のハードルはきわめて低い。というか、完璧バリアフリーである。しかしながら「その気」にならないのである。外食をして完全に菜食を通すのは難しいことなので、その際には肉も魚介類も口にするし、やはりおいしいと思うのであるが、それ以上の欲求が起きない。例えばベトナム料理など、比較的野菜の量が多い料理を食べに行っても、普段の自炊では食べなくなった海老や肉を口にすると「いつもより野菜の量が少ない」と感じてしまうのだから、不思議なものである。

そのような変化や「なんとなく菜食」の続行をクライアントさんなどに話すと、「以前からずっと菜食なのかと思っていました」と言われることが少なからずある。「なぜ?」と相手に問い返すと「・・・アレクサンダーの先生だから」という返答が帰ってくることが多い。
なぜ「アレクサンダーの先生」だと「菜食」なのか。
「アレクサンダーの先生」だから「菜食」であるとするならば、私が「アレクサンダーの先生」でなかったら「菜食」しない、ということなのだろうか。
「菜食」は「アレクサンダーの先生」にかかる言葉(事柄)なのか、「私」にかかる言葉なのか。
改めてそこを指摘すると、「アレクサンダーの先生」と「菜食」の間には実は確固たる根拠・ダイレクトにつながるものなど何もないと分かっていただけることが多いのだが、しかしながらこの「ダイレクトにはつながりえないもの」をなぜだかつなぐ何かが存在するから、このような認識が改めて問われるまで自動的に存在し続けえもするのである。その何かとは何か。あえて名付けるなら「思考のワープ力」。これは想像する者にとってはともかく、想像される者にとってはやや理不尽である。だって「理解」されないまま「関係」させられちゃうんだもん。少なくとも私はがっくりきちゃうわ。言語上、その「アレクサンダーの先生」とは「私」をさすのだと理解して入るのだが、意味としてとてもそうとは感じられないんだもの。アイデンティティー・クライシスを感じちゃいます。

「(自明に)つながりえないもの」をつなぐ連想は、その連想をする人間が「曖昧にしか理解していないもの」に対してこそはびこる。当然ながら。しかし一つ不思議に思うのは、想像者は「理解なきワープ」を行ってまで相手の何を理解したいのだろう、ということだ。
こういう場合、より極端な例の方がかえってわかりやすいと思うので、あえてこんな例を出してみる。あるクライアントがある日嬉しそうにやって来て「先生はニューヨークにいらしたんですよね」と言ったことがあった。「そうですよ」と答えると、そのクライアントはあるダンスの先生に会った話をし始めた。そのダンスの先生もまたニューヨークで勉強した経験があるとのことで「だから先生のなさっていることも、その先生と共通していますよね」という意味のことを言い始めたのである。ちなみに彼女はそのダンスの先生に直接確認を取ったわけでもなく、その先生とじっくり話をしたわけでもない。私は「は?!」という感じで一瞬反応の仕方を迷ってしまったのだが、これはけして彼女が冗談で言っているのではない。マジであった証拠に、私が彼女の早とちりを訂正すると非常に動揺していた。
この例は「ニューヨーク」というたった一つの共通項に多くのものを結び付けたかなり極端な例ではあるが、しかし彼女に限らず「ワープによって想像する者」は極度に「未知なること(もの)」を恐れている場合が多い。(この極端な例の場合、彼女が海外に行ったことがなく、「ニューヨーク」という単語にすら緊張してしまうということも、ワープを加速させる要因となったと思われる)「わからない」ということを非常に恐れ、即座にこたえの出ないことを「よくないこと」のように思い込んで意味もなくあせっていることが多い。冷静に考えれば、相手に会ったこともなく、やったことのないことならば「わからない」と思った方が自然だと思うのだが、それを「しらない」「わからない」と認識することは、まるで既存の自己を脅かすことであるかのように恐れていることが多い。だから「理解」を早まる。その人なりに理解しようとしている態度だとは思うのだが、残念ながらそれは外なる世界(自分以外の誰かとか、既に知っているもの以外の何か)への窓を開けようとしているようで、閉めている行為なのではないかと思うのだ。
そういう意味もこめて、「ワープ」ってやっぱり理不尽なパワーだと思う。

それでもしつこく考えてみましょう。「アレクサンダーの先生」と「菜食」のワープ空間をつなぐものとは何か。そういえば、以前某学会に呼ばれてワークショップを行ったときに参加者(治療関係者)から「ヒールのある靴も履かれるのですね」とか「お菓子も召し上がるんですか」とか「女性らしいですね」などと言われたことある。つまりどういうことかというと、「アレクサンダーの先生」は「化粧っけがなく、自然食ばかり食べていて、カンフーの練習着みたいな服装をしている」というイメージが発言者の中にあった、ということである。ちなみに彼らは私のほかに「アレクサンダーの先生」なる人物にコンタクトした経験があり、それが上記のような人物だった、という経験があるわけではない。これらはすべて発言者の想像によるものである。ここにも「菜食」と同様の何かが存在しているように思う。
それは何だろうか、といわれたら、多分浮上してきそうなキーワードは「健康」とか「自然派指向(嗜好・思考)」とかであろうか、と思う。あくまで想像である。だって私、自ら好んでこんなコトバ使うことありませんから。「健康」とか「自然」なんて、本気でその内容を考えたら多用すぎて絞りきれない。でも「ワープ」を使用する人がこれを多様な価値観として認識しているとは考えにくく、ある健康観、ある自然派観の中に私のイメージを当てはめたいのだと推測する。うーん。
「サカライタイ、サカライタイ」 私の中でそういう声がしてしまう。私、他人が作ったイメージに勝手に閉じ込められるの、嫌いなんだよな。一昔前の私だったら、律儀にさからったかもな。でも、律儀にさからってあげるというのも、ある種、誤解者に対する「サービス」のような気がしてきた最近の私である。たとえ一時早とちりのイメージが先行したとしても、その先をみる目や聞く耳があれば最初の誤解が最終的な誤解で終わるとも限るまい。一方で、誤解したい人はこちらが何を言っても誤解をする。誤解をしたがる。本当に何かに触れて理解することよりも、コンタクトを取っているように見える距離感の方を選択する。それもひとつの人間関係のあり方かもしれない。だから、私は誤解者と戦わないことにしている。私にできることは、取れないコンタクトをとろうむきになって取ることや、せっせと誤解を解いて回ることではなく、理解しようとする「もの」や「こと」への理解をより深めることである。最近私はそんなふうに思う。

興味がないことや理解したくないことを理解しないのならよい。しかしもしも、理解したい、そうありたい、そうなりたいと望むものに対して理解を焦るあまりに「理解によく似た誤解」が生じていることに気がついたなら、勇気をもってルート整備をすべきだと思う。ワープで無理やりつなぐのではなく。もしも「○○らしい」とみられたくて自ら「○○らしい」格好や振る舞いなどをする人間がいたとしたら、その人の振る舞いは所詮はまだ「コスプレ」だと思う。これが「コスプレ」で終わるか、本当に自分の何かを表現する外見として成長を遂げるかは、「それから」次第のことだと思う。

かみさま、かみさま、「理解」とか「コミュニケーション」とかいうものが、どうか人間関係における「コスプレ」で終わりませんように・・・努力はするけれども、叶うかどうかわからないものに対して私は祈る。祈っちゃいます。ほんと。

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