えこひいき日記
2005年11月11日のえこひいき日記
2005.11.11
あれよあれよという間に日が過ぎる。毎度同じようなことを言っているような気がするが、秋から冬にかけて(年末に向けて)のこの時期は本当に日が経つのが早い。
11月に初めに急遽東京に行き、翌日には和歌山にいた。和歌山に行くことは前々から予定していたことだが、東京は急に決めてしまった。しかも「どうせ行くのならば」と(それでも選んだのだが)幾つかの用事をブッキングしたので本当に朝から晩まで東京をばたばたと走り回り、帰りの新幹線にたどり着いたときにはぐったりして爆睡してしまった。
東京では幾つか美術館を回った。東京と現代美術館の『イサム・ノグチ展』、森美術館の『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』、それと『杉本博司展』。
『イサム・ノグチ展』は、今年完成した同人設計の札幌のモエレ沼公園を記念して始まった巡廻展である。内容はニューヨークと香川県にある美術館に所蔵されている作品の展示なので、どちらにも何度か行ったことのある私にとっては、この展覧会は「新しい作品」を目にする機会というわけではない。作家が故人である以上、「新しい作品」というのは物理的に生まれ得ないのであるが、しかしそれだけにキュレーターの視点とか、その展覧会が開かれる場所とか、時代(受け止められ方)とかいうものによって、どのように見え方が変わるのかがみえる展覧会でもある。そういう意味では「新しい作品」がなくても新しい。
イサム・ノグチ作品の中のマイ・フェイバリットを挙げよといわれたら、私はまず『真夜中の太陽』を挙げる。初めて彫刻を見て泣いた作品である。ただ、なぜ泣いたのかといわれると、すごく難しい。最近ある本の最終巻を読んでいて「意味が分かるかといわれたら全く分からないにもかかわらず、次の展開がありありと分かってしまって、号泣」という経験をしたのだが、そういう感じと似ているといえば似ている。理性的に何かを理解してそれに対して泣いている、というのではない。自分でも何がわかっているのか、何でそういうエモーションが巻き起こるのか全くわからないのだが、何かを感じているとは言える、という状態なのである。ちなみにその本については、読後に「今度は意味を理解するために」再読しようと思ったのだが、初読の際に2時間泣き続けて虚脱してしまったゆえにまだ再読する勇気がないままである。
今回の展覧会には『真夜中の太陽』は展示されていなかったが、『真夜中の太陽』と同じくらい大きな作品である『エナジー・ヴォイド』が展示されていた。今回、私はこれを観にきたと言っても過言ではない。この展覧会でなくても、いつもはニューヨークの美術館に行けば観ることができるのであるが、東京都現代美術館の空間の中で観るとまた雰囲気が違う。しかし、この作品に宿ったエネルギー、与えられた命の“熱”のようなものを感じるのは、なぜなのだろうと思う。石なのに。石だからなのか。じっと作品を見たり、ぐるぐるその周りを歩いたりしているうちに不覚にも涙が出てしまった。
和服姿で巨石をみて泣いている不審人物を見かけた方がいたら、それは私かもしれません。
それにしても、東京都現代美術館の常設展もなかなか素晴らしい。また足を運びたい。でも、びみょうに辺鄙なところに在るので、通いにくくはあるのよね。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』は前々から目をつけていた展覧会である。『レスター手稿』と呼ばれるダ・ヴィンチ直筆のノート(のコピー)が日本発公開されるということで、すごく気になっていたのだ。俗に『ウィンザー・ノート』と呼ばれる人体の解剖図やそれから想を得て描いたスケッチなどを主体とするものは既に出版物として出回っていて、私もアメリカにいたときに購入したのだが、『レスター手稿』は目にするのも初めて。ぎっしり書き込まれた文字と細かなイラストはもうくらくらするような緻密さで、「ダ・ヴィンチって、一体なにもの・・」と思わずつぶやいてしまうすごさである。
図らずも素晴らしかったのは、『杉本博司展』である。機会がある人は絶対見るべきである。本当に素晴らしいぞ。ここだけで売っている図版を入手したかったのだが、重いのと、高いのと(6千円なり)で断念してしまった(そのあと打ち合わせとかいろいろあったので)。でも来年1月9日までやっているのでなんとかしようと思っているところである。
さて、その後も色々なことがあり、仕事面でもばたばたしている昨今ではあるが、そのあたりの顛末はまた後日書きます。