えこひいき日記

2005年11月24日のえこひいき日記

2005.11.24

続くときには似たようなことが続く、というのは良くあることだが最近はそれがなんだか顕著である。この1週間くらいはうつ病をもつクライアントやその家族から毎晩のように泣き声で電話がかかってくる、ということが続いた。同じ人が何度もかけてくるのではなく、それぞれ違う人物がかけてくるのである。それが結果として連続している。正直、愉しい事態ではないが、それでこちらがまいる、というのでも(今のところ)ない(仕事だからね)。でも、なんなんでしょう、という感じではある。
こういうことを書くと(あるいは口にすると)、私の身を慮ってくれてか、「そういう(精神神経領域の問題を抱えた)クライアントは一括して断ってはいかがですか」と言ってくださる方もある。お気持ちはありがたいが、これがまた私の仕事柄、なかなかややこしい。つまり、私の仕事で扱っているものは「癖」や「無意識に習慣化していて、結果として身体的にも影響を与えている行動パターン」という、物理的な肉体そのものにかかわりつつも肉体を「ものあつかい」してはレッスンという形で介入する意味がないものを相手にしているからである。「そういうのでは絶対にないクライアント」というのをどのように判別し、線引きしてよいものか、極めてややこしいのである。
あえて思い切った言い方をするならば、身体が著しい問題を抱えうるまでの行為を無意識にパターン化できる人間は、すべからくどこか「病んでいる」。ただ、その「病み方」が最初にレッスンにいらしたときからいわゆる精神疾患と呼ばれる領域にある場合もあるが、「変わっている」「ユニーク」「特技だね」「他の人には真似が出来ないほど○○」「ばっかじゃないの」等々と称される場合も在る、というだけである。
かといって、私は個人的な趣味で「病んでいる人間」が取り立てて好き、というわけでもないし「そういう人間」を「救ってあげねば」などと思っているほど傲慢なホスピタリティも持ち合わせていない。「そういう人間」をセレクトしてレッスンしたいとも思っていないが、しかし意図的にセレクトしないのもどうか、と思っているだけである(その理由は上記)。
私が思うに、「変わっている」「ユニーク」「特技」「ばか」などと呼ばれることの内容はけして悪いことばかりではない。ただ、それが本人が認識する本人像とずれているとき、他人から言われる「レッテル」レベルのものに留まるうちはそうした性質は本人にとってちっともリアルではなく、味方になってくれない。むしろ、知らないがゆえに無駄に敵になっていることがほとんどである。だから、自身もそう呼ばれるものが自分にとっては何なのかを理解して把握しつつ、生かして生きていって欲しいな、と思っている次第だ。
だから私は問題を目の前にした時に、それを避ける方法やそこから逃げる方法ではなく、納得ができるまでそれを考え続ける方法、向かい合う方法を知りたいと考える。念のためにいうが「向かい合う」というのは、「挑む」とか「突破する」とか「勝つ」とかいう闘争的な意味合いの態度ではない。戦闘体勢を選択した時点で「逃げ」だと私は思っている。戦闘体制に入らねばならないのは決まって自分がびびっているときだけである。問題そのものではなくて、未知なること、方法が見えないことが怖いのである。逃げたいなら、「戦う」なんて「ごまかし」は行わずに素直に逃げる方がいい。そういう意味でいうと、もしも「逃げたい」のであればちゃんと「逃げる」ないし「逃げたいと思っている自分を認める」ことこそ、よっぽど私が意図する「向かい合う態度」に近い。

ところで先日京都で『世界アーティストサミット』という会議が開かれた。「アート」や「アーティスト」という名称を冠するときに連想されがちなのは、これはいわゆるアートイベント、個々の作家の展覧会や作品の紹介などの“催し物”ではないのか、ということであるが、このサミットは違う。アーティストたち(ほぼ全員造形作家であるが)が話し合うのは、「アートないしアーティストは世界を救えるのか」「人類の危機に解決策を示せるのか」という、非常にヘビーな内容であり、繰り広げられるのは純然たる“サミット”(話し合い)なのである。その真剣さ、ヘビーさを示すかのように、「コア・ミーティング」と呼ばれる主要アーティスト9名による2日間の会議の様子は一般には非公開。その理由は、各アーティストが忌憚のない意見交換をすることが可能なようにという配慮からとのこと。ただ、事前に論文を出して選出された50名の大学生にだけは「将来ある人たちにその現場を見ておいて欲しい」との意図から見学が許されている。彼らにはレポート提出が義務付けられているらしいし、見学といえど遊び半分では参加できそうにない。いわゆる「アート」という言葉のもつやわらかそうな、いやな言い方をすれば「多様性を(無制限に?)許容する」雰囲気があるゆえに「いいかげん(無責任、に近い意味で)」に思われそうなイメージからは程遠い体勢で開かれた異例のサミットだったのである。「コア・ミーティング」の内容は20日に行われた一般向けの講演の中で少し明かされたが、詳しくは後日出版物として発表されるらしいので、興味をもった人間はそれを待つしかない。

「アートで世界が救えるか」という問いかけは一見ナイーブすぎる響きを持っているかもしれない。しかしこの問いかけを自分自身にもしてみたときに、私自身の中から帰ってくる回答は「少なくとも、私はアートに救われている」ということである。私は多分、その力なしには生きていけない。図らずも私は「力」と書いたが、そう、私にとって「アート」とは行為や職業のカテゴリーやジャンル名ではなく、「パワー」なのである。書いてみて自分で分かった。つまり私にとって「アート」とは劇場や美術館に置いてあれば自動的に「それ」と認識するようなものではなく、この「パワー」をそなえたものだけを「アート」として認識しているように思う。だから私は作品との出会いに本気で一喜一憂する。つまらない作品にあったときには本気でへこむし、素晴らしい作品は大げさではなくひとの(少なくとも、私の)人生を変え、命を救うほど力を持っていると思っている。
これは先日「10月中に書きます」とこの「日記」に書いておいて書かなかった「宮島達男の Mega Death がどのように私にとって特別な作品なのか」という話とまるまるかぶる内容なのだが、いい機会なので言語化する努力をしてみたいと思う。
私はどのようにアートに救われているのか。
端的にいえば、私にとってアートはwholenessを取り戻す一つの「視点」である、と思っている。逆にいえば、私の日常生活いうやつは、しばしば特定の価値観や社会性と立場によって細切れにされている、ともいえるのである。それは意図して自分で切り取っていることでもあるのだが、でも毎日がそれだけでは私は疲れてしまう。私が仕事に疲れる理由はそれである。だからといって、疲れるから嫌になったとか、疲れるから仕事はよくないことで、やめたほうがいい、というふうに思っているのではない。むしろ続けたい(っつーても、これもまた目から星を飛ばして「続けたいですっ!」みたいなテンションの話ではない。あんまり感情を交えず、続ける意味というか、妥当性を自分で感じている、と言ったほうが正確かと思う)から、過剰に続けないほうがよい。そしてまた、仕事から離れることは、別に仕事のためだけにするのではない。結局は仕事も、仕事とじゃない部分も含めて「自分」というものの継続のため、なのかもしれない。続け続けることが続け方ではなく、時にはそこからはなれて見なくては、一体「自分」が何をしているのかがわからなくなる。

自分が「自分」をわからなくなりかけているときの体験として私が把握しているものの一つに、「闇が闇として見えなくなる」という現象がある。比喩で言っているのではない。文字通りの体験、身体感覚として私が感じたことを言っているのである。とはいっても、言語(しかも書き言葉)が表現の主体であるこのような場所に自分の身体感覚そのものを陳列することは不可能なので、結局言語に翻訳せざるを得ないのだが、なるべく自分の感覚に忠実であるように言葉を選んで観るとするなら、以下のようになると思う。
自分自身の思考や状況が個性やライフスタイルと呼ばれる範囲以上に偏った状態に留まっていることを感覚するのに、例えば「辛いものを食べても辛く感じない」とか「面白いもの、好きなものを観ても愉しくない」などということを通して自覚することは少なくないと思うのだが、私の場合、暗いところに行って「暗いな」と思うのではなく「みえない」「明るくない」と感じられたとき、たいてい私は「自分」に対するwholeな状況を見失い始めている、と感じる。味覚とか、聴覚とかでも自身の変容を感じるのだが、私は極めて視覚的な感覚で物事を捉える人間なので、個人的な感覚でいうならば、「闇が見えない」状態が自分にとって「きてるな」と最も端的に感じる状態なのである。『Mega Death』という作品を観にいったときのケースでいうと、暗い空間に瞬く青い発光ダイオードという展示空間に入ったときに、かなり「きていた」私はまさしく「闇が見えない」状態にあった。具体的にはどういう状況かというと、瞬く光は見えるのだが、その光と光の間、あるいはそれ以外の空間に存在するはずの空間がまるでボールペンで塗りつぶした紙面のような筋の入った黒さに見えるのである。闇の質が粗雑、というべきなのか、なんなのかよくわからないが、すごく落ち着かない暗さが光の間に存在している感じ。
あの時、私はトータルで1時間くらい作品を眺めていた。「トータル」の内訳は約40分と約20分。約40分間作品を眺め続け、そのあと他の作品などを観て一旦外に出て(この間約2時間)、また戻ってきて作品を眺めた。最初の40分間の中で、作品の明かりが消えて真っ暗になったのは3回だったと記憶している。展示室に入って割りとすぐに一度明かりが消えて真っ暗になった。そのときの真っ暗さは私にとってすごく落ち着かないものに感じられた。その落ち着かなさをなんと表現すべきなのか・・・よそよそしい、というのともまた違うのかもしれないが、ある種のかい離感というべきものを感じていたと思う。そうしてまた明かりが瞬き始め、それが壁面いっぱいに展開されていく。単純なようで一瞬たりとも留まらず変化し続ける光景。つやつやに磨き上げられた床にも青い明かりが映る。それを眺めている私の頭の中でも一瞬たりとも留まらずいろんなことが点滅する。連続的な思考ではなく、まるでまるで砂嵐のように、頭の中で思考にわく小さな虫がうごめき続けている。目の前の青い瞬きと闇を観ているのか、自分の頭の中を覗いているのかわからないような状態になっているうちに、また明かりが消えて真っ暗になる。さっきより少し心地よくなっており、線の塊のような闇ではない闇が見え始めていることに気がつく。思考にわく虫のざわめきが少し納まっていることにも気がつく。ざわめきが納まると、そのざわめきの向うにあったものが見えてくる(聞こえてくる)ような気がする。だんだん意識が澄んでいく。三回目に光が消えて、また点き始めたときに、私はやっと呼吸が正常になったような気がして、外に出た。
一旦外に出て、2時間後にまた作品の前に戻ってきたのは、せっかく熊本まできたのだから空港バスがくる時間いっぱい鑑賞してやろう、という欲どくしい根性がなかったわけではないが、それだけではない別の気持ちが働いていたことの方が確かかと思う。それが何なのかということを言語化するのもまた難しい。何かを確かめたかったのかもしれないと思ったりする。あえて言うならば、私の中に「闇」をみる力が定着したのか(あるいは呼び戻された?のか)を確かめるため。
この時間は、とても落ち着いた気持ちで作品と対峙していた。お行儀が良くないことかもしれないが、私は展示室の柱にもたれかかり、床に座って作品を観ていた。展示室の後方の壁沿いには背もたれのない長いソファのようなものが設置されていて、善良な熊本市民の多くはそこで鑑賞なさっているようだが、私は好きな場所に立ったり歩いたり座ったりしてみてしまう。展示室内は暗く、明かりが消えると真っ暗になってしまうために(熊本現代美術館では入り口にて「暗いところに急に入るとめまいを起すかもしれません」と書いた紙を配布しておられた。万全の配慮である)係員の方が非常灯を持って室内におられるのだが、何にも言われないので、好きなように見せていただいた。点滅する光を見ていると、相変わらず驚くほどいろんな思考の断片や、記憶の断片のようなものが自分の中を過ぎっていくのがわかる。でも今はそれらが「虫」のようなうるさいものではなく、水の流れのように、存在するけれどもその向うにあるものを隠さないで動いていくような感じがした。光と闇が相反するものではなく「そういう存在」として見えるようになっているような感じがして、落ち着く。そうしているうちにまた明かりが消えて真っ暗になった。その時間を「闇によって暖められているような感じ」と表現するのは大げさだろうか。でも偽らずに言うと、そんな感じを私は抱いた。安心して、次を待てる。「次」って何なんだかわかんないけれども。何かがGOサインを出してくれたような感じがして、私は立ち上がった。するとその瞬間に『Mega Death』の明かりが点り始めたのだ。偶然なんだろうけれども、私は嬉しかった。「ありがとう」と心の中で何かに言って、私は展示室を出た。

これが私の熊本における再生のストーリーである。「再生」などというと大げさに聞こえるかもしれないが、事実として、私はこまめに自分の中にある「死」を認め、それに向き合わなくては生きつづけて行く事が出来ない。しんどいことをしんどいと認め、ダメージを受けている自分を認め、その向こう側にあるものに向き合わなくては、私は生物として死ぬ前に内側からぼろぼろと死んでいくような気がする。しんどいことを「しんどい」と言わずにがんばり続けることを人は時に「努力」「がんばり」と表現する。現在進行形のことを維持することが大切なことで、現在起こっていることを否定的に感じたり、それに対して変化を求めることは「弱いこと」という人もいる。しかし私は本質的にはその限りではないと思っている。自分が本当に欲していることは何なのか、何故に苦しみ、何が起こっているがゆえに、あるいはいまだ起こらないでいるがゆえに苦しんでいるのかをみつめてみる。すると、現状を維持することか、現状を変えることか、どちらかが善か悪であるという判定など偏狭なものであることがみえてくるだろう。すべきことをする、という以外の人生の歓びがあるだろうか。じぶんがするべきことをすること。それは生きている間にしか出来ないことである。生物的な意味でも、存在という意味でも。そういう意味で、私は生きていくためにときどき死や闇をみつめるのだと思う。

私が仕事に疲れ果て、熊本まで「Mega Death」を観にいったときに私が観んとしたものとは、「Mega Death」という作品の中に体現されている「不条理」であったかと、いえる思う。それを目にしたとき、私は私自身がとらわれている価値観から解放され、物事と本当に向かい合うための準備が始められる気がするのである。アート(ほんものの、と言うべきかも知れないが)には「答え」がない。限定的な価値観に彩られた「正解」がない。それは答えを早急に求める態度とは最も遠いものでありながら、答えを追い求め続けるためのエネルギーをたたえている。

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