えこひいき日記
2005年12月19日のえこひいき日記
2005.12.19
怒れることありき。(何があったかはまた今度)
師走ねたばかりで恐縮だが、この季節、なじみの店で買い物をするとカレンダーを頂くことがある。先日もよく猫の用品を購入するペットショップでカレンダーをもらってしまった。
ところで、このカレンダー、なかなか微妙なのである。ほぼ毎年この時期にお店に行くと渡されるのだが、そのたびに「うーむ」と心の中でうなるものの、断れずに曖昧な笑顔で頂いて来てしまう品物なのである。何が微妙かというと、まず、でかい。サイズは、いわゆるアイドルさんのカレンダーみたいな大きさ。大きい分日付の文字も大きいし、お使いになる人の住宅事情や視力条件によっては使いやすいのかもしれない。私にとって大いなる問題は次の点、「猫がかわいくない」ということである。
なぜ「かわいくない」のだろう・・・と考える。モデルになっているのはいずれも血統書付きのような仔猫たち。その仔猫たちが「かわいくない」わけではない。撮影している方もプロと推察され、背景もフォーカスもすっきりしているし、けして写真技術がまずいわけでもない。しかしそこには猫が撮られているのに「猫」が写っていない気がしてしまうのだ。
一方、別のペットショップからも猫のカレンダーをもらった。こちらは小さめの壁掛けサイズで、カレンダーの写真は一般の飼い主さんから投稿された猫さんの姿で構成されている。大きいカレンダーと見比べると、ライティングとか、フォーカスの冴え方とかでは大きいカレンダーの方が明らかにきれいなのである。しかし猫たちの姿は明らかに投稿写真の方が「かわいい」。多分、一般的なカメラで日常の生活の舞台である屋内や庭先で撮影されたものなので、ごちゃごちゃと背景に生活用品が写っていたりもするし(これはペット雑誌の「あなたの猫をかわいく撮るコツ」などの特集では「やめましょうね」「さけましょう」と書かれている状態である)、「写真」としての完成度は大きなカレンダーに勝っているとはいえない。しかし猫たちが「かわいい」んである。ちゃんと「猫」が写っている感じがする。
その違いを何かと問われたときに、「飼い主の愛情」という答えを導き出すのは難しいことではない。カタチのないものも現れることがある。私は個人的にそれを疑わない。しかし、「愛情」が写る、というコトバだけを発音したとき、なーんとなくアヤシイ感じになりがち、かなーと、これを書いている私は同時に思うのである。それを無条件に信じるとすれば、それはいわば「オカルト」や「ホラー」の世界。確かに「愛情」なりを見たことも感じたことも体験したこともないのに信じるにはアヤシイお話。経験のない人は疑ったほうがよい。しかしもしもそれが展開されている現場に出くわしたら、それがたとえ未知のものであっても、感じ取ってみる勇気があって欲しい、と願う。きっとそれが何かを変える・・・例えば今回の享受者を近未来的に伝達者にする方向に・・・と私は思ったりする。
愛情や意思、思想というそれ自体に形がないものに何らかのカタチを与える術を、それを伝える術を人を持っているのって、やっぱりすごいことだと思う。でも、カタチのないものの存在は不安で、不安定に思えるから、もっとカタチの確認しやすいもので同じ効果をクリエイトしたくなりがちである。例えばそれはマニュアル作りであったり、フォーマット整備であったり、システム作り、あるいは技術力の向上だけがその効果を示す唯一の指針であるかのようにこだわることなのかもしれない。それはそれでよいところもある。しかしそれだけでは足りないことも少なくない。いやむしろ、優れたものほどマニュアルでは保存できない要素が多大に含まれるような気がする。
そういえば、先日のあるクライアントさんがこんな話をしてくれたことがあった。「私、以前は新体操を見るのが好きだったのですが、最近見方が変わってきたのです。以前はただ「すごいな」と思っていた技や柔軟性も、そこだけをもっともっとと突き詰めるとなぜか誰がやっても同じような、無個性なものに見える気がします」と。難度の高い技が「できるようになる」ことだけでも相当の努力と訓練が必要である。しかしそれが「できる」だけでは表現や意味を成さない。恐ろしいことだけれども。意味とは、ただ「できる」ことで自動的に生まれるものではない。「どのようにして成されるか」によって初めて「意味」や「表現」を宿す可能性が生まれるのである。
これは別に、いわゆる「表現芸術」の世界にだけ関係する話ではない。日常的な動作の一つ一つ・・・挨拶だって、お茶の出し方だって、いや、誰か他人に対する振る舞いだけではなく、自分が自分に行う振る舞いですら、「やればいい」ってもんじゃない。「やれているだけ」のことって、けっこう自分が傷つかないだろうか、最終的に。
そういうことに気がつかないで生きていくのは、やっぱり怖いなあ、と私は思うのである。