えこひいき日記

2005年12月25日のえこひいき日記

2005.12.25

関西や九州で大雪が降り、新潟で大停電が起こっていたとき、私は東京にいた。東京は晴天で、乾燥して風が冷たい意外はまったく穏やかな冬晴れで、ニュースの中の真っ白な世界が嘘のようであった。
しかし京都に戻る新幹線の中でそれが「バーチャル」ではないことが分かった。まさに「トンネルを抜けたら雪国」だったのだ。晴天の関東地方からは一転、岐阜羽島のあたりで景色はすっかり「雪国」になってしまったのだ。西に行っているはずなのに北に行っているような気分。新幹線は1時間ほど遅れて京都に到着した。私は最近手に入れたiPod nanoを携帯していたので、ゆーっくりと過ぎる雪景色をピアノ曲にあわせて映画のワンシーンのような気分で眺めていられたが、これがなかったら普通にいらいらしていたかもしれない。

人は「人混み」があんまり好きではないと思う。当然のことかもしれないが。でも現代の都市部では、この「知らない他人同士が否応なくかつ無作為に一箇所(電車や教室、繁華街などの特定の場所)に詰め込まれること」が日常化している。日常的だが人格の恒常性を維持する上ではタフなシチュエーションだという意味で、「異常な状況」だと私は思っている。だから都市部で生きる人間は多少なりとも自己と他者の間にシールドを作る術を心得るようになるようだ。例えば、満員電車の中でも他人と目をあわさないようにつり広告や中空に目をそらしたり、ポータブルオーディオや本を持ち歩いたり、(話したいことがあるわけではなくても)友達と「だよねー」みたいな話を話し続けたり、ということがそれである。物理的には見知らぬ他人と自分の体が驚くほど密着していたりするが(このような近づき方は親しい人との間でもめったに行わない)そこには意識を向けないように意図的に配慮するのである。そのような「配慮ある無視」が自己を他者から守り、また他者をも(非積極的な形ではあるかもしれないが)その存在を認めて尊重する作法となっている。それはけして「他者を無視することを目的」とするものではなく、あくまでも「他者と自己の関係の適正化」をはかるための手段に過ぎない。「配慮ある無視」をより上質な作法として使いこなすためには、時にはきちんと言語や態度でコミュニケーションをとることも必要である。例えば、見知らぬ人の足を踏んでしまったら一言「ごめんなさい」というとか、自分が前に進みたいときに前方に人が居たら無言で押したりしないで「すみません(通してください)」と言葉で自分の意思(行動)をさりげなく補強することも必要だ。多弁でなくてよい。ほんの一言でいい。それによって誰にとっても愉快ではないシチュエーションの中にも他者の存在を認めた非積極的コミュニケーションを持つことによって自己と他者が冒されない工夫コミュニケーションをするのだ。
しかし「非積極的コミュニケーション」という作法を用いることが大変に苦手な人もいる。たいていは「つながる」ことだけがをコミュニケーションだと思って用いているような(あるいはそれを強いられたり、自分に強いているような)、コミュニケーションの意味性が限定された生活をしている人か、「自己」の範囲が大変曖昧な人に多い。これがあんまりひどくなると過剰に排他的といわれたり、いわゆる憑依体質と呼ばれたり、精神的に異常という診断を受けることもあるだろうが、まあある程度の人たちは私のところにもたくさんレッスンに来ている。たいてい、そのような人たちは最初「他者の群れの存在」を自分という存在に仇なすものとして苦々しく話すが、身体的な意味も含めて「自己」の範囲が確立されると、意外と「作法」を無理なく行使できるようになることが多い。他人を暖かく無視しても他者の敵意を買わないし、逆に他者を敵視しなくても自分を守れることがわかってきて、何が自分で、何が自分でないか(ある必要がないか)がわかると、自分以外に「自分」が存在しないこの世でも意外に孤独ではなく生きていけるようになるようである。

ともあれ、私もまたiPodの音楽によって「他者の群れ」から守られて他者の群れの中に居ることが出来る人間の一人である。
他人が私という人間や私の仕事に関心を持ってくれることにも感謝しているが、同じくらい、関心を持たない人たちが居てくれることに感謝している。もしも全ての人間と関係を結ばなくてはいけないとすれば、私は気が狂うだろうし、そもそも「関係性」などという言葉の意味はなくなるだろう。私の仕事に関心をもたない人たちもいてくれるから私はまともに仕事が出来ているのだと思うし、関係を持たなくてよいタイミングや事項にはちゃんと放っておいてくれるのって、ありがたい。

ところで、今回東京に行ったときにはまた美術館を巡った。森美術館では杉本博司氏の『時間の終わり』を再訪し(この展覧会ではとにかく展示作品も多く味わうべきものも多い。前回私は打ち合わせの前にここを訪れたので、ゆっくり見れない部分もあってとても残念だったのだ。おまけに打ち合わせの相手は待ち合わせに遅れてくるしー)、ゆっくりじっくり鑑賞。念願だったずっしりした図版も入手した。
美術館を訪れるとき、私はものすごくものを考えていると思う。ただ、思考の使い方が日常とは少し違う。悩んでいるわけではない。何か見の前に解決すべき問題があってそれに向かって思考力を使っているのでもない。ただ感じ、自分が感じていることを感じ取るために思考の力を使う。自分の脳の中を流通する思考をスムーズにするために言葉の力を借りる。
そして今回はどうしても行ってみたくなって、横浜美術館の『余白の芸術  LEE UFAN展』へも足を伸ばした。漢字変換が出来ないのでアルファベットで表記させていただくが、LEE(李)氏の作品は独特である。白やベージュっぽい大きなキャンバスに墨色や一色ではないグレーの四角が少しだけ描かれていたり、石と鉄の板が向かい合っていたりする。とりわけ石と鉄による作品は大変私の好みで、最初に観たときからほぼ一目ぼれだった。
自然や素材をたくさん加工することによってではなく、最小のことで最大の表現を、と語る彼は、またこうも語っている。「芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。」と。彼の作品は彼の言葉を裏切らないものであった。

ちょうと石と鉄による作品を観ていたときに、展示室に推定60歳から80歳くらいと思われる男女の団体が入ってきた。少し退屈そうな面持ちで作品の前まで歩いてきた男性が同行の別の男性にこう話し掛けた。「石なんか美術館にそのままおいて、どこが美術作品なんだろうねえ」と。
このコトバが私の耳に飛び込んできたときが、なんという間合いだろうか、私はこの作品から感じ取ったことにはっとして、けっこう深く打たれていたときだった。だから、とっさに、この男性の発言に対する反論が本当に口から飛び出そうになった。しかし実際にはしなかった。しなかったのは、見知らぬ人にいきなり話し掛ける(しかも話そうとしていることは内容的に反論)ことに遠慮したからではなかった。この作品の作者がこのような反応にまみえるのは恐らく初めてではなく、それどころか恐らく呆れるほど同じような反応に出会ってきたことだろう、と思ったからである。そう思った瞬間、この発言こそが発言者である男性の「これまでの美術体験」の露呈であることに気がついてしまい、そっちに興味が移ってしまったからである。
恐らくこの男性は、例えば北海道土産の「熊の木彫り」のように、素材よりも造形が主張する段階にまで素材に人間の手が加えられている作品の方が、分かりやすいのだろう。その手数が多ければ多いほど「美術館に置くだけの作品」という価値判断とリンクさせやすく感じているのだろう。そういう価値判断がないわけではない。それも美術の鑑賞態度の一つであろう。美術館に入り、作品の前に立つ人々のささやきを耳にするともなく耳にするとき、「まあ本物そっくり」とか「すごい(手が込んでいる)わねえ」などという言葉を聞いたことはないだろうか。それはけして作家をけなすコトバではなく、むしろ誉めるコトバである。ただし「作品」というよりも「作家の労働」を誉めている、と言ったほうが正確なのかもしれないが。「作家の労働」を認識することを「作品」を観ることだと思っている、と言い換えてもいいだろう。それがこの鑑賞者とこの作品の間の関係性なのである。
しかし本当にそれが「作品」をみるということなのだろうか。
ものはひとつでもみかたはひとつではない、といったのはレオナルド・ダ・ヴィンチだったが、ひとはしばしば「もの自体」と「みえているもの」との違いを見失い、無邪気に一体のものだと信じてしまうような気がする。
ちなみにこの作品の名前は『関係項』というシリーズの『照応』。
私がはっとして「けっこう深く打たれた」のは、「数ある石の中でどうしてこの大きさの、この石を、こっち向きに置いたのか」などを考えていたときに「このように置かれているのは偶然(いいかげん)ではないこと」「この置き方だからこそ生まれるもの」を感じてしまったからであった。私になりになんだけれども。それに気がつかないでも生きていけるけれども、気がつかないことを恐ろしいと思ってしまったときに、耳に飛び込んできたのがさきほどの男性の言葉だったのである。

ちなみに、展示室の先を進むと、展示室の壁に直接書かれた作品があった。今回の展覧会のために製作された作品であるらしい。その作品を観て弾性は学芸員の人に「この作品は壁に張っているのですか」と聞いていた。この質問のココロはというと、どうもこの男性には「壁にじかに絵(作品)を描く」ということが信じられないということらしい。学芸員の方が「いえ、これは直接壁に描かれていまして・・・」と説明すると「えー、それじゃあ、持ち運べないじゃないですか」と言った。私なりにそのココロを翻訳してみると、つまりこの男性は絵画は「額に入れられるようなもので、ムーバブルないしポータブルなもの」という「定義」をもっているようなのである。(落ち着いて考えれば、カンバスというものに絵を描くことが一般化するのは割りと近代のことで、例えば社寺の壁画とか欄間とか、場所と作品の関係がかなり密接なものだって珍しくないじゃん、と気がつかれるのかもしれないが)「定義」。これも「照応」であり「関係性」やね。どうやらLEE氏の作品はことごとくに男性の既存の関係性に存在しない「作品との関係性」の存在を示してくるものであったらしい。困惑の表情のまま展示室を歩み去っていかれた。
この体験によって男性は作品と自分の関係が「つながった」と感じているのか「関係など存在しなかった」と感じているのかはさっぱりわからないが、どちらと思っておられるにせよ、私は、無関係も関係のうちだよな、と思った次第であった。

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