えこひいき日記

2006年4月6日のえこひいき日記

2006.04.06

春になるのにマニュアルなどない。
親に自分の着るものを選んでもらうような時期を過ぎて、自分で自分の着るものを選ぶようになって久しいにもかかわらず、毎年この時期の服装には迷う。日差しが明るくなれば早く薄手のものや明るい色合いの服を着たいと思いつつ、風の冷たさにどうしようかと戸惑う。靴もブーツにするかパンプスにするか、上着が冬っぽかったらショールやマフラーは春物にしようか、あるいは逆がいいのかなど、とても迷う。
アタマで考えても仕方がないものはからだに聞くしかない。この場合の「アタマ」は既存の知識や既成概念。これもデータとしてはとても有効なのだが、「今」を判断する上ではあくまでも参考でしかない。「からだ」は、多分感受性と言い換えてよいかもしれない。自分が感じていることを感じ取る能力といっていいだろうか。それは総合的なオンラインの情報処理を要求されるので、慣れない人、あるいは(悩むことは出来ても)考えるのが苦手な人、前例尊重型の方には「めんどくさい」情報処理なのかもしれない。

感じることと考えることはどう違うのか、などという質問を受けることはよくある。あるいは「「感じる」ことは「考える」ことよりも曖昧で不正確なのではないですか」などという質問とも意見とも取れる質問(?)を受けることもある。
問われた私の興味は「私の解答」を述べることよりも、相手がなぜこのような質問をいまして来るのかのあることが多い。「感じる」「考える」という言葉自体は質問者にとって初耳の言葉ではないはずだ。しかし既存のカテゴリーに収まらない何かに直面してこの質問をしてきているということだろう。では、既存には本人にとって「考える」とは何で「感じる」とは何だったのか。両者はどのような関係にあったのか。それを問うことがこの質問への回答となるはずだ。答えは自分の中に見出せるはずなのである。
既存の意味のカテゴリーや関係性を変えることは、その必要性があるから変化への希求(あるいはこのままではいられない、このままでは苦しい、という感じで感じることかもしれないが)が起きるとはいえ、言葉で表現するよりも生易しいことではない。とりわけ絶対不変の「正解」がこの世に存在し、そこに最短時間でたどり着くことだけが人間の優秀さであるかのように、学習を競技化してきた人間にとっては、ここのレッスンはやさしく(easyという意味でもkindという意味でも)はないだろう。何かを得るためにではなく、何かから逃げるためにしか努力しない人間もいる。しかも本人にそうしているつもりなどないから、気がついたときのショックは小さくなかったりする。
しかし気がつかないで物事を進めることなど出来ない。手強い問いかけでも、その問いかける姿勢をサポートし、よりよきサポーターであり続ける努力をすることが私の職務であると思っている。

この仕事を続けていて、奥が深いな、と思うのは個性と身体の関係についてである。「正しいからだの使い方」などというものを教える(教えられる)という作業は、ともすれば一つの型に人をはめ込み個々の個性を殺してしまうようにも連想しがちだが(善男ながら間違った教え方をしてそのようなことになってしまう例も皆無ではない)、実際は、正確に身体を使えば使うほど人間は個性的になるように私は思う。自分が自分という唯一の存在であることがびっくりするほど感じられてくるような気がする。
ただ、「個性」というもの、あるいはそのような個の特徴として語られることが多い「体質」「生まれ持ったもの」をどのように認識するかによっても、上記の私の発言の解釈が変わるだろうとも思う。例えば、多くの方は、自分の身体に反映された不調をきっかけにここにやってくることが多い。それゆえにクライアントの関心は「不調を良くする」ことにあり、それは「欠落を埋める」行為のように思われていることが多い。しかもそのような状況がすでに長く続いていることも多いので、自分の体調の悪さ、うまくいかなさを半ば「個性」「体質」のように認識していたりもする。しかし実際にここで進めるのは「足りないものを補ってよくする」のではなく「知らないうちに過剰になっていたものを認識し、やめる」という作業なのである(過剰が欠落を生む・・・言葉で書くとすごいよね)。過剰さを除いてなお発揮されるもの・・・それを私は個性と呼んでいるのかもしれない。
認識とは事実の享受によって生まれるものというよりも、既存の認識から引き出される認識の連想ゲームのようなものであることも少なくない。それで言うならば、上記の「やめる」という行為は後ろ向きというか、熱意のない、ネガティブな行為であるかのように受け止められることも多い。特にノーマークの過剰さによって自分の思考や身体を痛めつけていたことに気がつかなかったクライアントにとっては、認識してもいなかった過剰さを「やめる」作業は至難である。物事を進めるパワーは何かをすることによって生まれるのであり(これはあながち間違いではない)、うまくいかないということは即ち「足りない」のだと(この認識はしばしば誤っている。こんなところでパワーを使いすぎるから、意識が狭くなり、総合的に物事を進めていく体力も持続しなくなるのだ)思っているので、その認識を変化させることに苦慮することが多いのだ。
しかし固定的で頑固な価値観ないしその持ち主というものは、それを揺さぶられることを著しく嫌う一方で、自分の価値観念がそうまでしなくては守れないものであることに対して不自然さや疑問を覚えていることも少なくない。苦難を経つつ、身体構造を学ぶとともに、少しずつ自分の思考パターンと身体イメージ、具体的にどのように使ってきたかということとの相関性を掴んでくると、ここにやってくるきっかけになった最初の問題はすでに解決されていることは言うに及ばす、さらに深い問題(「問題」といっても「トラブル」ではないよ。「興味」というべきもの)に向かい合うことになるように思う。それが冒頭に書いた「個性と身体の関係」である。
何かを学び誤りを直す行為は、けして自己否定的な行為ではない。どこか自分の思考や身体の“外”にある「正解」を敵に降伏して開城するような形で受け入れることで成立するものでもない。自分の認識を変える戸惑いや疑問も、ただ苦しい試練というだけではなく、本来の自己の稀有さに気がつく道程であるようにと、祈るような気持ちで思ったりする。
その奥の深さが難しさでもあるが希望でもあり、だから私はこの仕事をしていられるのかなあ、と思ったりする。

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