えこひいき日記
2006年5月10日のえこひいき日記
2006.05.10
世にいう「ゴールデンウィーク」も終了し、何となく一息ついた気分の今日この頃である。最大9連休という人もいたようだが(でも私の周りにはほんとに9日間も休んだ方はいなかったけど)、私も3日間お休みをいただき、福井県や高野山に行ってきた。やはり休暇は楽しい。
今回の休暇、とりわけ印象的だったのは高野山、真別処の「お花まつり」であった。真別処というのは高野山内の修業道場で、いわゆる高野山の観光ルートからは少し離れたところにあり、一般の人間には5月5日(この日が「お花まつり」)の一日しか公開されない。また、秘仏もこの一日だけ御開帳になることもあって、道場で修行中の僧侶にとっても修行僧OBにとってもちょっと特別な一日なのである。
「お花まつり」とはお釈迦様のお誕生日。一般的には4月8日に行われることが多いが、ここでは旧暦に準じてこの日に行われる。ちょうどこの頃が高野山の桜の季節なので、違和感はない。1ヶ月前も見た今年の桜を再びここで見ることは、真別処の独特の佇まいとあいまって、一種のデジャヴュ的な感じというか、タイムスリップしたような感覚になる。
私は一般人の部外者なので、修行道場としての真別処が普段どのような佇まいなのかは知る由もないが、修行道場としてのそこに親しんでいるOBの方に言わせれば、この日のムードはかなり特殊なようだ。どう特殊なのかは比較する前提の体験が私にはないので具体化できないが、しかしなんとなくハイな空気に満ちている感じである。普段は厳しい教官の先生(和尚)もこの日はなんだか和やかで、OBたちの話も弾んじゃう様子だ。
そのような空気の中で法要に参加し、私もなんだか楽しくなってきてしまった。経を聞くとわくわくし、仏像を観るとテンションがあがるなんて妙かもしれないが、もはや私はそのような因果な体質になってしまったようだ。
今私は「仏像」なんて書いてしまったが、ここの仏様は特別である。家の仏壇にある仏様も、様々な神社仏閣におわす仏像や神像もみな「たましい」がいれてあって、けして「ほとけ」の姿をしただけの「像」ではないのだが、それ以上にここの仏像は「いきている」のである。びっくりする。「いのちがやどる」というのはこういうことなのか、と始めて明確に目にしたような気がした。どの仏様も素晴らしいのだが、とりわけ地蔵菩薩のすばらしかった。お顔立ちは、奈良美智さんの「The Little Pilgrims」の顔になーぜか似ている感じで、こどものような大人びているようなかわいいお顔なのだが、すごく「いきている」のである。思わず(なぜか)「このおじそう様は歩き回っていますよね」と口走ってしまったのだが、それを聞いていた真別処OBが「どうしてご存知なのですか、本当にそう言ううわさがあるんですよ」とおっしゃったので「やっぱり」と思った次第であった。奇妙な会話ではあるのだが、このような会話も、おじぞう様が歩くという話も、不思議とは思わなかった。なぜといわれても困るのだが、そうとしか思えないんだもんね。
思えば、「形見」とか「思い出の品」という言葉があるように、ある物質が「物質以上(ないし「以外」)」の意味合いで取り扱われることは珍しいことではない。形見の品は、それがその物である以上に、「そのひと」の一部や「そのとき」を閉じ込めたカプセルのようなものとして、あるいは「その人そのもの」という意味を帯びて取り扱われるし、そうした品物はなぜか事情を知らない人間が接しても「モノ以上のなにか」を感じたりすることがけして特殊ではなくあるように思う。骨董品なんかでもよくある話かもしれない。ここの地蔵菩薩は修行道場にあり、毎日修行僧がそれこそ命がけでお世話をしているおじぞう様である。そうであるならば、骨董や形見よりも強く「いのち」が宿ってもなんら不思議ということはないのかもしれない。
「もの」が物であるだけではなく、それ以上の何かを与えるのが「記憶」や「あつかい」というものであるとするならば、それはけして無機物にのみ言えることではないだろう。「○○あつかい」という言葉があるが、例えば「人間扱いされない」人間はある意味主体的に人間になりきれないのかもしれないし、モノ(?)としては人間なのに「人間扱いされない」扱いに規定され、「そういうもの」になってしまうともいえるかもしれない。特に人間の場合に「○○扱い」というときは、不当な感覚をもって「物質的存在より下」に扱われているときに使用することが多いように思うが(ほんとに言葉である状況を示したり名付けたりするときって、ギャップに反応しているときが多いよね。私、個人的にはそれ以外のことにも言語を使用していきたいわ)、人間とて、ただ生物として人類に生まれついただけで完成できるものではなく、存在に見合う扱いを受けて完成する存在なのかもしれないと思ったりする。
私自身、生身の身をもちながらこのおじそう様ほどにはまだまだ「いききれていない」ことにも思い至り、反省というか、今後の励みにしようと思った次第であった。「その比較もすごいですね」とOB氏には笑われてしまったが、不遜な意味ではなく、生きているうちにちゃんと生きようと思った次第であった。