えこひいき日記

2006年6月6日のえこひいき日記

2006.06.06

気がつけばもはや六月。今日は六歳の子が何かお稽古事を始めるのによい(そうするとそのお稽古事は身につくとか)、とされる日でもあり、ダミアン君の誕生日とされる日でもある。

日々色々なことがあるのだが、前回日記を書いたときから今日まで色々なことがあって、疲れてしまっていた。最近、あんまり「疲れた」とは思わなかったのだが(普通に一日の疲れというものは感じるが、そういう意味ではなくて)、ほんとに、久々に真剣に仕事やめることなども考えた。ただ、それは私にとって解決方法とはなりえないし、例えば人間関係において真剣に嫌だな、そうしてこんなことをするのかと思う人間がいる一方で、やはり素晴らしいと思う人たちもいるわけで、そのおかげで私は、瞬間的に注意力を拿捕してしまいやすい「いやなもの」にこだわりそれを避けることにエネルギーを傾けるよりも、もっとどうできるかをたくさん目に考えたほうが良い、と思うに至った。そういうわけで、ようやく少し立ち上がれる気持ちになったんだけどね。

世の中でもいろんな事件があった。最近、ニュースを見ていてもショックを受けることが多くて、そのことにショックを受ける。
少し前のニュースになるが、「TYイン」というチェーン展開しているビジネスホテルの社長が営業認可後に障害者用の設備などを勝手に撤廃したことを「自分としては制限速度がある場所をちょっと10キロオーバーくらいで走った感じ。悪いといえば悪いけれど、そんなに悪いとは思わない」という発言をしていたことがあったのだが、ご記憶の方はおられるだろうか。このセリフを、先日インサイダー取引疑惑で逮捕されてしまった村上氏の弁明をテレビでみていて、急に思い出したのだった。
私はこのホテルチェーン社長の発言を聞いて、本当に驚いた。驚いたのは2つの意味においてである。一つはこの発言の内容にであった。「ちょっととかいう問題じゃねーだろ」とテレビの前で突っ込んでしまったことを覚えている。もう一つの驚きは、この社長が自分の発言に大変自信を持っていることに対してであった。テレビカメラの前の社長の表情は「ね、あなたもそう思うでしょ。こんなことでお咎め喰うなんて、私もついてないですよね」といわんばかりで、自分で自分の発言を心底から肯定していた。私はそのことに驚いてしまった。すっごい間違った事言っているのに、悪気はないんだよね。その「悪気のない態度」だけをみてその印象を汲めば、本当にこの人(ないしこの人の発言)は「間違っていない」ように見えもするから面白いものである。
村上氏も逮捕前の会見で「金を儲けて何が悪いんですか」と発言していた。「金を儲けること」がいいことなのか、悪いことなのかは私にはわからない。なぜなら、それが肯定されたり否定されたりするのはその意味によると思っているからだ。「金儲け」自体の是非ではなく彼にとって「金儲けとは何か」という哲学が問題である気がするのだ。でも、彼にとっては「金儲け」自体がゴールであり、命題だったのかしら、とも思えてしまった。彼にもあの社長と同様、「自分を疑う」姿勢が微塵もなかったように感じられたからである。
「自分を疑う」というと、否定的に聞こえるかもしれない。しかし私はそのことを勧めたいと思っている。私の著書を読んでくださっている方にはもうお分かりいただけているかと思うのだが、私が「自分を疑え」といっている「自分」とは、認識、「自分にとってのあたりまえ」のことであって、人格や存在という意味ではない。著作の中でも「「あたりまえ」をあたたかく疑え」という小見出しを設けたが、自分の中で常識化、常態化したことを洗い出すことは結局自分を肯定することだと私は思っているし、自分を知るということでもあると思う。そうした作業を経て自分のとるべき行動、行くべき道が見えてくるように思えるのだ。身体的にも、思考的にも。
しかし「あたりまえ」はあたりまえすぎて、その存在を認識することは怠られがちになる。そうしているうちに自分にとって「常態ふつう」という意味での「あたりまえ」は守られるが、「そのようにすることが道理に叶う」という意味での「あたりまえ」ができなくなっていることに気がつかなくなってしまうように思う。
私はそのことを恐ろしいと感じる。それは「こころ」とか「じぶん」というものを失う、ということではないのかなあ、などと思ったりもする。「こころ」なんてものがなくても生存も発展も出来るし、なんかいっぱしのことに励んでいるようにもみせられるけれども、私はつまらない。いわゆる道徳的な意味でいっているんじゃないよ。自分がしたいこと(意思や希望)が自分がしていること(行動やパターン)に支配されていることにも気がつかないなんて、つまらないと思うのだ。でも気がつけば、変える選択肢も手に入れられる。でもそういう変革すら、自分のためにではなく、「他の人がいいって言うから」「いいことをするのは、いいことにきまっている」みたいなノリでしか理解しない人もいるから、そういうのだと絶望的ではある。それって「金儲けはいいことか悪いことか」という論議と同じである。「薬を飲むのは身体によいのかわるいのか」とか「スポーツはからだにいいのかわるいのか」という質問(?)と同じである。くだらない。きちんと「疑う(自分にとって何かということを考える)」ことを怠ると、その意味ではなくそれ自体に責任を押し付けようとしちゃうんだもん。大変保守的で、お馬鹿だと思う。

私、一応商売人の家に生まれ育ったから、お金でする苦労も、お金でもたらされる喜びや恍惚も、少しは理解しているつもりである。それでもやっぱり「儲けることがいいのかわるいのか(そのココロは「悪いはずないよね。私はよいことをしたのだ」「私に批判的な人間は儲けようと思っても儲けられなかった負け犬なのだ。わかっていないのは彼らである」)」などという言葉を言う気がしない。より自分に身近なことに置き換えて「仕事をすることはよいことか悪いことか」と自分に問うても、それは「仕事」の問題ではなく「仕事の仕方」の問題であるように思えてならない。

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