えこひいき日記

2006年11月4日のえこひいき日記

2006.11.04

10月末に私用でお休みを頂いたのだが、まじで死にそうになった。虚飾と偽り(というより、本当のことをいわないことが礼儀みたいな)の世界でもあるよ、とある程度覚悟して挑んだ用事だったが、思った以上にダメージを受けてしまい、疲労のあまり世を儚みそうになった。感覚も変になってしまって、お風呂を入れようとしたら水風呂にしてしまうし、意味もなくお玉を手に取り、これが何なのか分からなくなって錯乱しそうになり、ゲシュタルトなんかとっくに崩壊した感じだったが、24時間で何とか回復。しかし24時間は廃人でした。

ところで秋の京都は観光激戦都市。どこに行っても賑やかである。それは京都市民として嬉しいような気持ちがする一方で、交通等々やや不便と感じたりする。
そんな中、ダッシュで観にいってきました。「プライスコレクション」。京都国立近代美術館で行われている『プライスコレクション 若冲と江戸絵画』という展覧会である。
伊藤若冲は私にとって「禁断の画家」である。彼の絵を見ていると、いつも見てはいけないものを観ているような気分になる。ずば抜けた画力の持ち主であることは疑うべくもないが、ただ写実の力に優れているというのではない。変な表現かもしれないが、例えば鶏の絵にしても、普段なら鶏が誰の目から見ても「ニワトリ」の姿をしているがためにかえって隠されて見えなくなっているものを、彼は鶏の姿を描くことで抉り出してみせているような気がするのだ。自分の肉眼では見ることの出来ないはずの世界を目撃する快感と畏怖。若冲は驚異に他ならない。
プライスコレクションの所有者、プライス氏はアメリカ人。19歳の時にスポーツカーを買うつもりでお金を溜め、西海岸からニューヨークにやってきたときにふと立ち寄った骨董店で若冲の『葡萄図』に出会ってしまい、スポーツカーではなくて『葡萄図』を買ってしまったという逸話は有名だが、実際に『葡萄図』を目にするとプライス氏と若冲の出会いには運命と呼ぶものを感じずにはいられない。私はこれまで『葡萄図』を図版でしか見た事がなく、図版の中の『葡萄図』はその本体だけで表具が掲載されていないものばかりだったのだが、表具を含めた『葡萄図』を見たときにはこれに惚れ込んだ19歳の見識の深さには感服するしかない、と思った。しかしそれは、いわゆる骨董美術の「目利き」としてのすごさにというよりも、自分に向けられた運命のまなざしに臆することなく応じられる度胸のよさに、感服してしまう、という感じである。凄い。凄い。ビバ、運命!
『花鳥人物図屏風』や『鶴図屏風』の前では本当に泣きそうになってしまった。世界がちゃんと立体で見えていて、それをあっさりと墨で二次元で描いてみせる凄さ。世界を描ける人って、すごいなぁ。私が感じる若冲の世界は、やはりありえない世界だ。
私は絵画を観るときに、それが「窓」のように思えることはよくある。「ここ」という現実の世界から絵画の中の異界を覗く。キャンバスはその窓である。絵画が「窓」であるならば、私のいる「ここ」は「窓」の外側の世界(・・・というより、屋内だから中というべきなのか)でありながら、絵画が描く世界の中(内容)に含まれた場所であるといえるかもしれない。世界の広がり本質は「窓」の中の世界にこそある。世界は絵画の中で逆転する。そのことを私は普段恐怖しない。しかし若冲の場合は違う。例えば宅配便で荷物が届くとする。普通なら箱に収まる大きさの物が箱の中に入っているはずである。ところが若冲の場合は、箱を開けてみると箱よりはるかに大きいものが平気な顔をして溢れかえっている感じがする。私は若冲のような絵を所有する度胸は無い。多分、私の人生がその絵に支配されてしまうような気がするからだ。その運命の海にダイブする勇気が私にはない。だから私はコレクターにはなり得ない人間だと思う。私の手許にも幾つかの骨董や美術品はあるが、それはいずれも「箱」や「窓」にきっちりと納まり、価格的にもサイズ的にも笑顔で私の生活の中に納まってくれる品々たちである。若冲は手におえない。たとえ私がお金や収蔵場所に困らない身であったとしても、私にはどうしてよいのか想像もつかぬ作品たちである。
そう感じるからこそ、若冲が稀代のコレクターの手の中にある奇跡を、その奇跡ゆえに今日若冲を目にすることのできる幸運を、本当に嬉しく思う。
こういう奇跡が在るから、人生捨てたもんじゃないと思ってしまう。

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