えこひいき日記
2006年11月26日のえこひいき日記
2006.11.26
祖母が大腿骨を骨折し、先日手術を受けた。自宅の廊下で転倒したのである。入院から手術までの顛末はなかなかたいへんだったが、幸い手術もスムーズに終了し、今は普通に(?)入院をしている。
祖母は90歳になる。私が日本に帰ってきた翌日に祖父が亡くなったのだが、祖母はその時の祖父の年齢を追い越してしまった。十数年の間に祖母は随分小柄にもなり、年齢也の変化も祖母の肉体はわりあい自然に受け入れてきたと思う。その事が祖母にとって幸福なのか不幸なのかはわからない。もしもどちらかであったとしても、そのことを理由に加齢を拒否することは生物には出来ない。何か出来る事があるとすれば、より幸福に生きられるように生きてみることだけかもしれない。
しかしそんなふうに肝を据えていつも生きていられないのも人間なのかもしれない。日々の小さな不幸を、より幸福には生きようとしない怠慢を、ついつい許してしまえる。その日々の事が、「いざ」という時にも影響してしまいやっぱり肝が据わらないとなると、不幸は拡大するのだが、祖母の場合、「いざ」というときの肝の据わり方がよいようである。
手術を前にインフォームドコンセントを受けては(受けるほどに)おろおろする母を尻目に、祖母は非常によく寝て、よく食べていた。夢も楽しい夢しか見ないようである。ビデオを交えて手術に関する説明をしようとしてくれる医師の説明も「眠いから」と断っていた。けして投げているのではなく「なるようになる。ならないことはならない」と思っているからのようである。そういう祖母に天も応えてくれるものなのか、麻酔も部分麻酔で済み、輸血もせずに手術は終了した。
祖母が自宅で骨折し、母が一人で祖母を助け起して救急車を呼んでいた頃、私は事務所で仕事をしていた。クライアントが来ている間は事務所の電話もその他の電話も呼び出しベルが聞こえないようにしているので、私が祖母のことを知ったのは夜遅くなってからであった。その後の入院中の祖母の世話にしても、私はろくにする事が出来ない。心配性の母に対しても、私はろくに手助けが出来ていないと思う。
私には分身の術は使えないから、仕事をしているときに家族の事をすることはできない。逆もそうである。例えば私が仕事を犠牲にして家のことをしても、多分家族の誰も喜ばないし、私も満足しないだろう。それもわかっている。不遜な言い方にきこえるかもしれないが、私が私らしく生きることは家族と向かい合うことでもあると、どこかで思っている。でも、それができないことをある種の“痛み”として感じている自分がいる。できないと分かっていても、感じようと感じまいと事態が変わるわけではないと分かっていても、家族に対しても仕事に対しても同時に完璧に向き合おうとする方が傲慢だと分かっていても、胃がひっくり返る。こういうとき、アタマよりカラダのほうが正直だな、と思ったりする。自分がどう感じているのかを認めたからといって、それで事態が変わるわけではない、だからそんなこと感じても仕方ないと、とアタマが言っても、カラダは今在る思いに反応する。私にはこのカラダの反応が示すことを、どういう感情なのか上手に名付けることができない。申し訳なさ、といってもちょっと違うし、かなしみ、というのとも違う気がする。私が痛むのは、そこに希望が混ざっているからだとも思うからだ。でもその“希望”というやつもhopeとかwishとかいうよりも、prayに近いかも知れない。だって、私が何を望んでいるのか一つに絞り込めない。
これからも私はこういう感情や反応に向かい合っていくと思う。割り切れなくて、苦しいけれど、嘘じゃないから。