えこひいき日記
2006年12月18日のえこひいき日記
2006.12.18
あぁぁぁ、ついに12月である。しかももう後半です。前回「えこひいき日記」を更新してから後もいろいろ×いろいろあったのに(『ビル・ヴィオラ展』をみたり上野の仏像展をみたり、顔見世にいって中村勘三郎さんと写真撮ったり)、ありすぎて書ききれない。仕方がないので(?)自分の中で最もホットな話題を書きます。
最新情報の中でも告知しているが、草思社さんの『Web草思』にて連載を持つことになった。いよいよ今月28日から連載開始予定。
連載の開始を前にこんなことを書くのもなんだが、今回私は生まれて初めて「いっこも言葉が書けなくなる」というスランプを経験した。こういうことを書きたいのに、どういうふうに書けばいいのか、どういう言葉をあてればいいのか、ということについて悩むのは常なのだが、「自分の身体の中からまったく言葉が出てこない」という経験はした事がなかった。夜寝ていても、内臓を抜かれた魚が水槽の中に沈んでいるというシーンだけが繰り返される夢ばっかり見るし、起きていても原稿とにらめっこしていても内臓からどんどん血が抜かれていくような気がするし、こんなふうになるなんて自分でも驚いた。まあ、そこから何とか這い上る事が出来たので、今回の連載開始を迎える事が出来た。楽しんで読んでもらえると嬉しい。
原稿を書いているときのアタマというのは、レッスンのときとも、こうして「日記」を書いているときとも使い方というか、使う場所が違うように思う。私が個人的に「原稿用の脳」と呼んでいる場所、というか、感覚があって、原稿を書くときはそこを使う。
原稿を書こうとしている私の姿というのは、傍目からみると、たぶん、ぼーっとしているようにしかみえないと思う。しかもすさまじい騒音の中でぼーっとしているように見えるのではないかと思う。テレビとオーディオが同時についていて、それを一見無視しているかのようにパソコンの画面を見ている、という図になっているのが常だからだ。でも適宜チャンネルを変えたり「飽きたな」と思ってCDをチェンジしたりしているので、全くテレビや音楽を無視しているわけでもない。それと同時にパソコンの画面とにらめっこしていたかと思ったらコーヒー淹れたり、急にタオルをたたみだしたりもするから、たぶん、とても「原稿を書いている」という作業には見えないと思う。でもこうやって「気を散らす」作業をしないと、私は原稿に集中できない。
「集中する」というと、まるで虫眼鏡で太陽光を集めて紙を焦がすような感じに思えるかもしれないが、少なくとも私にとって実際に必要な「集中の感覚」というのはそれと似て非なるものだ。自分の感覚や思考を文字に置き換えていく作業をする際に必要なのは「クリアな視界」であって、一点に集まる感覚ではない。下手に一点集中してしまうと、言葉が団子状に滞ってしまって、自分が何を書きたいのかがわからなくなってしまう。それでも言葉を捜しながら書いていく作業の中では団子になるリスクが付きまとうので、私は意図的に「気を散らす」ことをして、視野の確保を助けようとしているのだと思う。
孤独に原稿を書いていて、しかも今回みたいに(一時的にとはいえ)言葉という私の中のぞーもつを喪失するような状態の中で原稿を書いていると、大げさでもなんでもなく、編集者は執筆者の命綱だと感じる。本当にこれで書けているんだろうか、これでいいんだろうか、と迷って、自分で自分を判断する冷静さが限界に達して、自分で自分を信じきれない状態になったときに、信頼できる編集者から返ってくる言葉はありがたい。それがたとえお褒めの言葉ではなく叱責であったとしても、その言葉は私を支える。
そういう話を私のクライアントさんの、茶人でもあり社会学者でもある方に話すと「よく、本の最後に編集者に対する謝辞が書いてありますが、あれは多少大げさに書いてあるのかと思っていましたが、自分で本を書くとわかりますね。この編集者でなければこの本は書けなかった、ということが本当にあります」という言葉が返ってきた。「結局、人です」と。ほんとうに。
大音量の中で深夜パソコンとにらめっこしながら泣いたり笑ったりしている姿はとても惚れたオトコに見せられるものではないが、考えてみれば私は多くの方に支えられて自らこの狂気の原稿地獄の中にいるのだから、感謝して楽しまないとな、と思ったりする。